2007.7.29.

大学の用事で,大阪のホテルオークラへ行ってきました。

どうせ行くならテクテク倶楽部をってことで,森ノ宮〜玉造の辺りを歩いてきました。

暑い日でした。

そして,「オ−サカキング」で大賑いの大阪城公園にも行って来ました。

 ← 大阪城公園の様子です。写真をクリックしてください。
玉造稲荷神社です。写真をクリックしてください。→ 


他に,歩き回りました。以下に紹介させていただきます。
谷町4丁目で降りて,法円坂の交差点へ・・・。難波宮跡の広大な緑です。
飛鳥時代・奈良時代の宮殿の跡だそうです。

知りませんでした。前期と後期があって,前期は「大化の改新の後、645年に孝徳天皇は難波に遷都し(難波長柄豊埼宮)、宮殿は652年に完成し、日本最初の本格的な首都の宮殿建築とされる。これは掘立柱、草葺屋根で造られたものであった。」・・・とのことです。
そして後期は「奈良時代の神亀3年(726年)に聖武天皇が藤原宇合を知造難波宮事に任命して難波京の造営に着手させて離宮を設置する(平城京との複都制)。中国の技法である礎石建、瓦葺屋根の宮殿が造られた。天平15年(744年)に遷都され、このとき難波京も成立していたと考えられている。」とのことです。
昔日の夢の跡のように,今は・・緑が広がる敷地となっていました。かつ,ブルーのビニールシートも一杯見えて・・・。時の流れでしょうね・・・。大阪城も,血液内科時代の先輩のいらっしゃる大阪医療センターも見えていました。

緑は,噎せ返るほどでした。



少し南へ足を伸ばすと清水谷という辺りに来て・・・お寺さんです。
蓮華寺さんです。
↑:常満寺さんです。
壁沿いに教義なども記してあり,真摯な様子が感じられます。
清水谷公園も小さな公園ですが,緑に溢れていました。


さて,街角ごとに新発見っていうか,ふと目に付くものもありました。
難波宮跡の近くの上町交差点には,大村益次郎の碑がありました。この人・・・戊辰戦争とかで名前を知ってますが,緒方洪庵の適塾で学んだ医師でもあったのですね・・知らなかった。
やはり上町交差点のところに「大槻能楽堂」があります。-----別に名前が同じって訳でもなく,聞き覚えはありました・・。

創立70周年を迎える本拠地とのことです。
こちらは,白光大神です。
丁度,玉造稲荷神社から南へ下った辺りに,道路の真ん中にあります。大阪にはこういう神木が結構あるそうです。白光は白蛇を祀る神様ですよね。
蓮久寺さんは,玉造交差点の北側です。
大きな伽藍でした。
境内には入れませんでしたので,外から拝見させていただける様子だけです。
墓地も含めた敷地も広いお寺さんでした。
ふと街角では,こんな伏見橋の旧跡などもあります。

「豊臣秀吉は大坂城築城に当たり、京都の伏見から町人たちを玉造稲荷神社の下に移り住まわせた。安政期の地図にある伏見坂町がそれで、伏見橋という橋がかかっていた。」だそうです。
さて栄寿寺さんですが,本門佛立宗です。

「文化十四年(1817)に京都で生まれの,開導(かいどう)聖人。正しくは“本門佛立宗/開発教導・日扇(にっせん)聖人”」が開祖とのことです。


清水谷町から東へ空堀町へ入ると善福寺さんがありました。
高野山真言宗の寺院。山号は如意山。院号は甘露院。

で,正式な寺号は「どんどろ大師 善福寺」
大阪夏の陣の戦死者を弔うために建てられたと伝えられるお寺で、「どんどろ大師」と呼ばれ、親しまれています。この「どんどろ」とは天保5年(1834年)から同8年までの大阪城代で弘法大師を深く信仰した土井大炊頭利位(どいおおいのかみとしつら)の「土居殿」がなまって、そう呼ばれるようになったといわれています。

ということです,なるほど!



天王寺区から再び中央区へ

大阪女学院の東側に・・・・・・・本当に小さなっていうか,そんな祠があります。

松ノ木大神です。かつ,若松大神・三吉大神も一緒に祀られているようです。



玉造2交差点のところには,聖マリア大聖堂がありました。
日曜の午前で,丁度ミサが終わって,信者の皆様が出てこられるところでした。



現在の大聖堂は1963年に落成した。近代建築家・長谷部鋭吉の遺作ともいえる建築作品である。  とのことです。

素晴らしい外観でしたし,細川ガラシャや高山右近の像もありました。 
これらの像と一緒に写真を撮られてる方もいらっしゃったので,遠方からミサに来られたりもしているのかも知れません。



カセドラルから北へ・・・。越中公園というのがあります。
暑い夏の日の午前・・・・・・・少年野球の子供たちががんばっていました。

そこを道路の真ん中を区切る様に・・・越中井がありました。
この付近は細川越中守忠興の邸跡で、越中井はその邸内にあったものといわれている。慶長5年(1600)関ケ原戦の直前、忠興が家康に従い上杉攻めに出陣中、石田三成は在坂諸大名の妻子を人質にしようとしたが、忠興夫人玉子(洗礼名ガラシャ)はこれに従わず、家臣に胸を突かせて37歳の生涯を閉じた。

ということだそうです。




さて,森ノ宮の駅の方へ向かいました。

会場のホテルオークラに向けて・・・後は,大阪城公園を横切って入ろうってことです。

で駅の近くには,森之宮・・・です。

正式には鵲森宮(かささぎもりのみや)という。
 社伝によると、推古天皇の時に、わが国の鉄工業の祖といわれる吉士磐金(きしのいわかね)という人が、朝鮮から持ち帰った鵲を、この森で飼うたので、この名がついたと言う。-----ということのようです。
可也,どっしりとした勇壮な狛犬なのですが・・・戦中に焼夷弾の被弾にあい,台座などには,その傷が残っているそうです。