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予防と健康レポート
はじめに
水俣病は1953年〜59年にかけて水俣地方で、工場廃液に含まれていた有機水銀によって汚染された魚介類を食した地域住民に集団的に発生した。四肢の感覚障害・運動失調・言語障害・視野狭窄・ふるえなどの症状が見られる。これらの症状から特に視野狭窄について注目をし、その当時、実際に水俣病の原因究明に携わった熊本大学水俣病研究班の経験談等を基に考察する。
選んだキーワード
公害 視野狭窄
水俣病 視野狭窄
選んだ論文の概略
水俣病発生の真の原因として、助触媒の変更により水俣湾が高濃度メチル水銀で汚染されたことが公表されてから、水俣病発症の考え方を修正する必要に迫られた。1968年以降は魚介類のメチル水銀濃度は激減し、長期経過水俣病は高度メチル水銀汚染時期に影響を受けた後遺症と考えられるに至った。高濃度メチル水銀中毒の初期脳病変は脳浮腫によること、また、抹消神経病変は軸索変性が先行することが、コモン・マーモセットで実験的に証明された。
水俣病(メチル水銀中毒症)の病因について−最新知見に基づいての考察−
熊本県水俣市で得体の知れない病気が次々と発生し、昭和31年8月、熊本大学医学部にその解明が依頼された。その後、昭和34年7月に熊本大学水俣病研究班が、「魚介類を汚染している毒物として、水銀が極めて注目されるに至った」と公表した。内科医である著者が水俣病はメチル水銀中毒症であり、原因はチッソ株式会社の工場から出される排水による公害であるという結論に至るまでの経験をもとに環境問題へ提言する。
環境問題と内科学−水俣病の経験から−
考察
水俣は熊本市の南方約100キロに位置し、鹿児島県との県境に近い人口約4万の小都市である。水俣病発生当時はこの地域と熊本市とを結ぶ舗装道路は一本もなく、鉄道のみが唯一の交通手段であった。そんな片田舎ともいえる水俣にはチッソ株式会社の工場があり、この小都市の住民の働き口として、住民達へかなりの恩恵を与えていたと考えられる。当時の市長が元工場長であったという点からも明らかである。また当時の日本は朝鮮戦争等の影響により産業の発達に国を挙げて力を入れており、この会社も朝から晩までフル稼働で動いていたと考えられる。このような時代背景の下、水俣病の集団的な発生が起こった。
この町に得体の知れない病気が次々と発生し、地元の医師会、保健所、市民病院などが中心となって「水俣奇病対策委員会」が作られた。しかし、この委員会では対応しきれなくなり、昭和31年8月に熊本大学医学部へ病気の解明の依頼がされた。そこで水俣病研究班が学内十余りの講座の協力により作られ、この病気に対応することになった。
患者が多発した地域では、患者のほとんどが漁民とその家族であった点、またその地域の飼い猫が奇妙な行動をとり死亡していた点、そして脳に炎症所見が見られなかった点よ
り、漁民と猫の魚を介しての中毒ということがすぐにわかった。
臨床面から未知の疾患を診断・解明するために、患者の病状・所見を正確に把握して、そのクライテリアを確立する以外にはないと考え、すべての患者の諸動作は映像として、言葉は録音して記録として残した。水俣病は、視野狭窄・視力障害・感覚障害・運動障害・難聴など多彩な神経症状を主徴とする疾患である上に、神経学会が発足して間もない当時の日本において、医師たちのこのような冷静な対応は妥当であったと考える。
その後、2年かけて34例の詳細な観察のできた患者の症状・所見を集計し、患者見られる症状の70〜90%に達した視野狭窄、難聴、言語障害、振戦などから有機水銀中毒であると推測した。そして、患者の尿中水銀量の測定、猫への水俣湾の魚介類投与、猫へのエチル燐酸水銀投与実験より、水俣病は有機水銀中毒症であると結論した。それから病理所見も有機水銀中毒に一致し、水俣湾内のヘドロや魚介類から大量の水銀が検出されたため、熊本大学水俣病研究班は昭和34年7月に「魚介類を汚染している毒物として、水銀が極めて注目されるに至った」と公表した。
ここで、ほとんどの水俣病患者で出現する症状である視野狭窄に注目する。ヒト水俣病剖検例では、大脳鳥距溝周辺の鳥距野、中心溝周辺の中心後回および中心前回、Sylvius溝周辺の中心後回および横側頭回に選択的な傷害が見られる。そのため臨床症状として、病変部に応じて、視野狭窄、視力障害、感覚障害、難聴が前述のように出現すると考えられる。そしてコモン・マーモセットを用いて、この大脳選択的傷害を実験的に証明した。メチル水銀を大量投与して、症状が出現する直前を見計らって生前にMRIを撮り、その直後に剖検した症例で脳浮腫を確認し、さらに剖検脳においても鳥距溝の浮腫を確認した。これにより水俣病の患者に出現した症状は、初期の脳浮腫が起こることにより、皮質神経細胞が破壊・消滅したために引き起こされたと考えられる。
水俣病では、両側性求心性視野狭窄が出現する。病理学的には、鳥距野の前位部が後頭極よりも強いことがわかっている。このことから視野の支配領域は鳥距野の前位部が視野の周辺部を支配し、後頭極が視野の中心部を支配しているため、患者は視野の中心部しか見えていないと考えられる。この鳥距野の傷害の違いは、メチル水銀中毒の初期病変が脳浮腫であることを踏まえると、鳥距溝は前位部が深く、皮質は周囲からの圧迫を受けやすいために病変を形成し、後頭極は脳溝が浅いかまたは欠くために脳浮腫により皮質は障害を受けないために起こると考えられる。
まとめ
水俣病が発生した昭和31年頃は日本の高度成長期の真っ只中であった。日本の社会全体が戦後日本の復興のためなら多少の犠牲もやむを得ないという風潮もあった。そのため工業界も国も表面的には患者や医師たちに対して協力的ではあったが、非協力的な部分も少なくはなかった。昭和34年の熊本大学水俣病研究班の発表を受けてから、国がこれを認めたのは昭和43年であり、9年間も放置されていたことからも国益重視の風潮が多分にあったことは明らかである。公害の被害は他の疾病とは異なり、被害は広範囲に及び、行政の力がなければ患者を救うことは難しい。また、近年では中国が目覚しい発展を遂げた。その陰で高度成長期の日本のような環境汚染や公害等の報道を度々耳にする機会が増えてきている。今後、水俣病のような公害の原因が国内に限定されることは稀であると考えられる。その原因は海を越えてやってくることも可能性としては低くはないはずだ。そういった場合、行政つまりは国と医療の連携は必要不可欠であり、今後医療に携わる者としては、常に患者の立場となり、患者と協力し行政に働きかける姿勢を忘れてはならないと考える。
また水俣病が原因不明の奇病として見られていたときに、熊本大学水俣病研究班は「この奇病と言われているものも内科疾患の一つである。それなら一人でも多くの患者について、多種多様な所見を正確に捉え、公約数的クライテリアをもとめて、その本態を世界の文献に伝えようではないか」という、昔から伝えられ、教えられた内科診断学の本旨に従った姿勢で原因究明のために努力を重ねた。その結果、水俣病は有機水銀中毒症であるという結果を得られたのは周知の事実である。今後、非常に発達した現代医療でも解明できない奇病と言われる疾病と出会うはずである。そういった時、焦らず冷静に基本に戻り、原因を追究する姿勢を忘れてはならないと考える。
最後に1995年に水俣病問題の政治解決がなされた。しかし、まだ問題が残っているのが現状であり、特に公害被害者認定への対応が挙げられる。公害には被害者に対する補償・救済がつき物であり、そのためには認定という作業が必要となってくる。現在では被害者の認定に関わる業務に関しては、国が指定した医師がその役割を担っている。認定業務には純医学的観点以外に、社会的考慮も加わることが多いため、診断と認定業務は別種の事項である。医師による診断で認定されない被害者も、医師以外の職業、たとえば弁護士のような法律家が加わることにより、認定されるようになりトラブルが減るのではないかと考える。前にも述べたが、公害とは広範囲の人々に被害を与えるために国などの行政機関との連携が必要不可欠である。しかし、医療に携わる者はあくまでも医療技術のスペシャリストであり、行政の作ったルールに関しては素人である。そこへ、法律家が加わり、三者の連携を強めれば、被害者により良い生活を与えられるのではないかと考える。
今回、水俣病という公害を通して様々なことを学んだ。基礎医学を学んでいる途中の私にとって論文を読むのは早すぎるという固定観念があったが、実際に読んでみると理解できる部分が多々あり、素直な感想として面白かった。また、病に苦しむ患者に対し、医師は万能であると信じていた。しかし、患者には生活があり、公害により奪われた生活を少しでも取り戻すためには医師の力だけではどうすることもできず、行政機関の力も必要とする病もあるのだということを気づかされた。また、医療面でも病の原因究明のためには様々な医療関係者の協力が必要であり、医療にはチームワークが必要不可欠であると改めて感じた。そして、病で苦しむ患者の救済のためには時には回り道とも思えるようなこと、つまりは基本に戻るということも必要であり、そういった判断ができる冷静さも必要であると感じた。