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1.はじめに
4月7日、4月17日に講義で見た映像と、それに関連した2つのキーワードを自分で選びそのキーワードに関連した論文を2つ検索する。
講義で見た内容と、ビデオの内容より、自分自身で考えたこと、医師になる人間である立場から見た考察などを今回のレポートで書いた。
2.選んだキーワード
・公害
・視野狭窄
今回のこのキーワードでは、論文は1つしか検索できなかったので、大槻先生に連絡し、"視野狭窄"を"水俣病"に変更してもらい、残りの1つの論文を
・公害
・水俣病
この2つのキーワードで検索した。
3.選んだ論文の内容の概略
(その1)
"【内科 21世紀への展望】
社会の変化と内科学・内科診療
環境問題と内科学・内科診療 水俣病の経験から"
徳臣晴比古、岡島透、家村哲史、一安幸治、竹迫三也、山下昌洋
(日本内科学会雑誌91巻 12号)
・内容
水俣は熊本市の南方に所在し、鹿児島県との県境に近い小都市である。水俣病発生当時は、熊本市と結ぶ舗装道路は1本もなく、専ら鉄道で2時間以上を要した。この小都市にチッソ株式会社が君臨し、この会社が町の死活を握っていたようなものであった。当時の昭和30年頃の日本は産業の興隆期で、この会社も増産を謳歌していた。
この町に得体の知れない病気が次々と発生し、地元の医師会などが中心になり「水俣奇病対策委員会」を作るも対応しきれなく、熊本大学医学部にその気病の解明を依頼した。そこで医学部長は学内の講座に協力を依頼し、水俣病研究班を作り、この病気に対応することになった。
患者が発生したのは水俣湾の奥座敷で、袋湾に面した南西部の一帯で、患者の殆どが漁民とその家族であった。加えてその部落の飼い猫があちこちで奇妙な行動を取り、最後は狂いまわって死亡していた。最初は脳炎が疑われたが、調べてみると炎症所見は全くなく、漁船と猫を結ぶと中毒、しかも魚を介しての中毒という線が濃厚になってきた。
未知の疾患を診断・解明するために、患者の病状・所見を正確に把握して、そのクライテリアを確立する必要がある。ただ本病は多彩な神経症状を主徴とする疾患である。神経学会の発足を遡ること4年のこの時代において、この論文の著者である徳臣氏は神経学的訓練をほとんど受けていなく、途方にくれていた。しかし徳臣氏はすべての患者の諸動作をフィルムに納めることから始めた。もう一つ、患者の特徴として喋り方がすべて子供っぽくなることが気付かれた。
当時、熊本大学病院は空襲で消失し、約2km離れた陸軍病院跡を借り、患者を収容していた。徳臣氏らは毎日、外来―病棟間の間を歩いて往復していた。ここに収容されていた水俣病患者は10名余りで、その後は新しい患者発生の報が届くと、鈍行で2時間あまりかけて水俣に着き、患者宅に赴いて診察しフィルムにおさめた。その頃の患家は多く海に面した斜面にあり、電燈のない家も時に見受けられた。当時、水俣の魚は危ないという風評が立っていたので、商売に差し支えるとの理由で、新患をなるべく外に出さないようにしていた。
徳臣氏は医学書を探し求め、そのうちの一冊が水俣病解明に大きな原動力になる。水俣病の症状とその医学書に書いていたアルキル水銀の症状と似通っていることより工学部関係の方にチッソではアルキル水銀が使用されているか訊ねるが、無機水銀は触媒としては使っているが、有機触媒は使っていないという話を聞き、またあの広大な海を汚染し、生物を殺傷するほどの大量の高価な水銀を営利会社が放出、放置する筈が無いと考え、水銀から離れていった。
マスコミを中心とした世論から、原因究明が出来ないことで二年間責め立てられる。この二年間の苦行の末、詳細な観察の出来た患者が34例に達し、その症状・所見を集計し、図1(次ページ)のようになった。すなわち、視野狭窄、難聴、言語障害、運動失調、感覚障害、振戦等は70~90%に達して、先に書いた捜し求めた際見つけた医学書の論文にほぼ一致するものとなった。さらに入念に観察した34例の経過により、普通型、急性劇症型、慢性刺激型、慢性強直型の4型に分類した。
このようにして本病は臨床的に有機水銀中毒に一致すると考えられたので、尿中水銀量を測定した。その結果健常者が15γ/l以下であったのに対し、水俣病患者では115~134γ/dayであった。更にキレート剤であるBAL投与例では、尿中水銀量は増加し、EDTA-Ca投与でも同様の結果が認められ、有機水銀中毒である可能性がより一層強くなった。
もうひとつ奇妙な事実は、先にも述べたように猫の発病だった。現地の人々は猫が舞うと言っていた。飼猫の発病は患者発生の予兆と恐れられていた。実際徳臣氏もその症状をあらわす猫を研究室で動作を観察した。
その猫を詳細に観察すると、痩せて毛が粗になり、艶を失っていた。歩き方はヨロヨロしていた。餌で誘って階段を下りさせると足を踏み外して転んでしまう。持ち上げて下に落とすと、ヒラリと立つ筈の猫がそのまま胴体着陸する。いつもダラダラ涎を垂らしている。その状態が2~3日続いた後、突然のひどい流涎で全身びしょびしょになり、やみくもに突進、逆立ちを繰り返し死亡してしまう。
また、水俣湾内の岩石に生育しているヒバリガイモドキ(通称黒貝)を採取し、60~70℃でボイルし、天日に干して正常の猫に投与し、実験する。その結果、20~35日後に発病し自然発病猫と同じ症状を辿り死亡した。投与量を半減すると、発病までの日数も増えた。
そして核心のエチル燐酸水銀の投与実験も行う。1日1~4mg投与で最短9日、最長32日で、貝投与と同じ結果が得られた。
臨床所見、尿中水銀排泄増加、猫の実験などにより、本病の原因は有機水銀中毒に一致すると確信し、また脳の病理所見もそれに一致することや、水俣湾のヘドロ、魚介類からも大量の水銀が見つかったことで証明された。
時代背景として、昭和31年頃は、1950年の朝鮮戦争勃発を契機として、すべての産業が上向きになり、戦後日本の復旧の為には多少の犠牲もやむを得ないという風潮があったようだ。水俣病の多発はその余波として起こった出来事で、工業界にも国にも会社擁護の態度が明らかで、徳臣氏の研究に対しても多面では非協力的な部分が少なくなかった。昭和34年に、水俣病の原因は水銀ないし有機水銀であると熊本大学研究班が発表し、内外の識者がすべて承認していたのに、国がそれを認めたのは43年のことだった。実に9年間も放置されていたわけである。また、新潟での足尾銅山の件が発生していなければ、熊本水俣病はメチル水銀中毒症として認定されなかったかもしれないとも言われている。公害の概念は、一般にはこれほども低調なものだった。
内科医としての態度として、当時の原始的とも言える当時において徳臣氏が行ったことは、「この奇病といわれているものも内科疾患の1つである。それならば1人でも多くの患者について、多種多様な所見を正確に捉え、公約数的クライテリアを求めその本態を世界の文献に伝えよう」と考え、それに向かって努力を重ねたことである。昔から伝えられ、教えられた内科診断学の本旨はこれではなかったのではないか。このような精神は生き続ける必要がある。環境汚染により、新しい形の中毒が何時、何処で、どのようにして起こるのか判らないが、これらに最初に関わるのは通常内科医であろうが、一人一人の患者を詳細に見定める態度を忘れてはいけないと考える。
水俣病が認定されるまでは、公害という概念は日本では真剣には取り上げられることはなかったようである。或る企業が原因となって不特定多数が災害に蒙った場合は私害であり、不特定多数の企業が醸し出す災害が公害であるという説があるが、いずれにしても企業が原因であることには変わりは無い。公害という事になれば被害者への補償・救済がつきものであり、そのためには認定と言う作業が必要となる。被害者の認定に関わる業務に関しては、国が指定する医師以外に、他の職業人、例えば法律家を加えた専門の機関がその任に当たることが望ましいと考える。診断と認定の業務は別種の事項である。そこには純医学的観点以外に、社会的考慮も加えることが多いからである。医師の眼で診断に踏み切れないケースも、医師以外の眼を加えて判断することになれば、トラブルも少なくなるのではないかと考える。
3.選んだ論文の内容と概要
(その2)
"水俣病事件小史 −水俣病は本当に終わったのか−"
井上 豊治
(川崎医療短期大学紀要 25号 P9~23)
・概要
水俣病は、1953年頃から熊本県水俣湾周辺の漁民を中心に発生したメチル
水銀中毒による中枢神経疾患である。公害の原点ともいわれる水俣病事件は、
その問題解決の為に、最初の患者が発見されてから実に48年の長い年月を要
した。世界でも類のない深刻な環境汚染と健康被害のもたらした最大の原因
は、経済発展最優先を国策とした人権無視と行政の対応の遅れにあったとい
える。本稿は、事件の推移を概観しながら事件の発生や拡大の要因を検証す
るとともに、この事件からなにを学ぶべきかについて考察した。
・内容
2004年10月15日、国と熊本県に賠償を求めた「関西水俣病訴訟」の上告審判決で最高裁は、規制権限を行使せず被害の拡大を招いた行政責任を認める判断を示した。公害の原点とも言うべき水俣病の最初の患者が発見されてから、およそ半世紀にも及ぶ長い歳月を費やした後の判決だった。このことによって事件はようやく終結を迎えたかにみえるが、事件の全貌が明らかになったわけではない。事件全貌の解析や病像の確立、認定基準の問題、再生に取り組む地域の未来など、解決しなければならない課題は山積みしたままである。
水俣病事件は既に過去の出来事と思われがちだが、世界でも類のない深刻な環境汚染と健康被害をもたらした最大の原因が、経済発展最優先を国策とした人権無視にあり、その根底には豊かさや便利さを限りなく追い求めるわれわれ人間の生活様式があることを忘れてはならない。その意味でも、水俣病事件は決して風化させてはならない重要な課題である。
本稿は、事件の推移を辿りながら事件の発生や拡大の要因を検証するとともに、この事件からわれわれはなにを学ぶべきか、そして遺された問題と今後どのように取り組むべきかについて考察する。
水俣病の発生機序を説明すると、水俣病は産業活動により化学工場から排出されたメチル水銀化合物に汚染された魚介類を日常的に多食した住民に発生した中毒性の中枢神経疾患である(図2)
経口摂取されたメチル水銀は、その大部分が消化管から吸収される。腸管では主にシステインと結合してアミノ酸輸送系により吸収され、血中に入るとヘモグロビンやアルブミンなどのSH基と結合する。肝臓や腎臓では、主にグルタチオンやタンパク質と結合した形で存在する。メチル水銀が肝臓から血管や胆管へ排出されるときには、γ-GTP(アミノ酸の膜輸送に関する酵素の一つ)の作用でシステイン抱合体となり、腸管に達するとそこで再吸収され、腸管循環を繰り返す。
血中のメチル水銀は、システイン抱合体として血管脳関門の中性アミノ酸輸送系により、脳に容易に取り込まれる。脳が特に障害を受ける原因としては、メチル水銀が容易に血管脳関門を通過し、神経細胞と親和性が高いことがあげられる。
メチル水銀による脳の神経細胞破壊のメカニズムはいまだ不明のままである。
水俣病の病態については、臨床的に多様な症候を示す。主な症候は、四肢末端の感覚障害に始まり、運動失調、平衡機能障害、求心性視野狭窄、歩行障害、構音障害、筋力低下、振戦、眼球運動異常、聴力障害などであり、味覚障害、嗅覚障害、精神障害をきたす場合もある。これらのうち、感覚障害、運動失調、視野狭窄、聴力障害はメチル水銀中毒の典型的症状とされ、ハンター・ラッセル症候群と呼ぶ。また、メチル水銀が容易に血管胎盤関門を通過するため、胎児期に母体が汚染魚介類を経口摂取することにより、脳性小児麻痺様障害をもって生まれる胎児性水俣病がある。
水俣病の診断は、水俣病の各神経症候が他の原因によっても生じるため、メチル水銀の摂取があった者について、判断の蓋然性を高めるために症候の組み合わせによる診断基準に基づいて行われている(表1)。
水俣病の治療は根本的な治療法は現在のところなく、発症急性期にメチル水銀の排泄を促進することによって障害の程度を軽減させる方法か、または慢性期の自覚症状に対する対症療法主なものである。発症急性期の治療には、侵入経路を発見しその経路を発見しその経路を断つとともに、キレート剤やSH製剤などで尿中への水銀の排泄を促進させるほか、SH基をもつL-システインを用いた血漿交換療法、ビタミンEなどの抗酸化剤の投与などがある。また対症療法として、痙攣など激しい症状を鎮めるための薬物投与が行われる。
慢性期の治療についてはリハビリのほか、有痛性筋強直性痙攣や不随意運動、筋緊張異常などの症状を軽減させるための薬物療法が行われている。
水俣病事件の経緯については省略する(別に添付してある水俣病事件年表参照)。
水俣病はしばしば「公害の原点」とも言われている。それは単に最初に起こった大規模な公害であったとか、被害の悲惨さなどによるものではない。工場排水に含まれた化学物質が環境を汚染し、その結果、食物連鎖を通じて起こった中毒事件であったこと、さらには有害物質が胎盤を通じて胎児に中毒を起こしたこと、そしてこれが人類が始めて経験する中毒であっただけでなく、事件の発生・拡大に対する企業の無責任、行政の対策の遅れなど、あらゆる意味で世界でも類のない、典型的な最悪の公害病といえるからである。
ではなぜこんな事態に陥ったのか。その原因は、チッソによる汚染の歴史と企業体質、行政の対応、専門家の役割とモラル、水俣病という原因不明の疾患に対する差別の問題などがあげられる。
水俣再生への取り組みとして、水銀で汚染された水俣湾の復元や被害者における生活の再生などが行われてきた。また、チッソという会社はまだ水俣の主要な企業の一つである。この会社には患者への医療や生活の補償を続ける責任があり、水俣病の原因企業として、再び同様な過ちが起きないように社会に対する働きかけが求められている。
この事件はなんども終わったこと、済んだことだとされてきた。患者と認定された人への賠償金だけで済ましたこと、認定基準についてのことなどいろいろなことが国外の水銀中毒の事件でのレベルに比べて著しく立ち遅れている。
まだまだ水俣病は終わっていないのである。
この事件の流れの中で、人間が大きな誤りを繰り返してきたことを否応なく認めざるを得ないが、その根底に豊かさと便利さを限りなく追い求める現代の生活様式があることを忘れてはならない。
環境は確実に、絶え間なく人類に危険信号を送り続けていた。それにもかかわらずこれを無視し、被害の発生・拡大を防ぐ為の対策を惰ったばかりでなく、その後の的確なフォローもしなかった。その結果、取り返しのつかない人命被害と健康被害をもたらし、壊滅的な環境破壊を生むことになった。
尊い人命と健康被害との引き換えに、水俣病の事件は多くの教訓を残している。それにもかかわらず、今また、「アスベストによる被害」が新たな環境問題として浮上している。その対応の中で、この事件から得た教訓が十分生かされることを願う。
4.考察
自分は水俣病について知っていることは、今までは単なる三大公害のうちの一つであるということだけだった。最近ニュースで裁判の話を見たこともあったが聞き流していた。熊本出身の友人にも水俣病のことを尋ねたが、よく知らないようであった。地元の人間にさえ忘れられてきているのではないだろうか?
今回この機会にいろいろな論文を読んで、水俣病についていろんなことを知った。なぜこの疾患がこんなにも流行し、とめることが出来なかったのか、どういう症状をきたすのか。初めて知ることばかりだった。そして当時の風潮など納得できないことばかりだった。
先日、実習で長島愛生園に行かせてもらった。ここでもハンセン病の患者達が同じような状況になっていたようだ。今、現在でも社会から白い眼で見られることがあると聞いて、心が痛くなった。
自分は医師になる立場であり、治療という身体のcureだけでなく、心のcareという面でそういった差別の眼などを無くすことができるように最大の努力を尽くすべきである。
しかし、もし自分がこの道に進んでいなかったら、本当にこのように考え、差別の眼でみることなしに被害者と接することができたのであろうか?自分たちはこの医学の道に進み、そう思うことが当然だということは理解しているつもりであるが、世間の流れはまだそのように思うのが当然だということにはなっていないようである。まずは、医療云々の話より社会の根本を変える必要があると思った。
この疾患の原因究明にあたった徳臣先生の話の中で「この奇病も内科疾患の1つである。一人一人の患者を詳細に見定める態度を忘れてはいけない。」という言葉は印象深かった。
当然のことだとはいえ、今も昔も医師が患者のことを考え尽くすのは変わりようのないことである。
また、自分はこういう事件では原因を作った会社にだけ全面的に非があると思っていた。しかし、今回のレポートを読んで、行政の対応の悪さにも憤りを感じた。しかし、それが当時の社会の状況であることも感じた。それが今も変わっていないことも。
自分は将来、社会になんの影響ももたない単なる一人の医師にしかなれないかもしれない。しかし、患者を治療するのはもちろん、少なからず社会に影響を与えることの出来る医師になりたいと思った。
5.まとめ
今回このレポートを書くにあたって、二つのビデオを見た。一つは水俣病訴訟のもの。もう一つはオーダーメイド医療のことである。
自分の選んだキーワードではオーダーメイド医療についての論文は無かったのでそれについては書かなかった。
しかしながら、水俣病について調べることで、医療現場以外での医療の現状を知ることが出来たと思う。
論文の中でもあったが、今アスベストの問題が危惧されている。この水俣病の事件のような二の舞いだけはして欲しくないと思った。
最後に、今回このようなレポートを書くのが初めてだったので、どのように書いてよいのか全くわからず、乱文になっているかもしれません。すみませんでした。このような機会は絶対将来の糧になると思うのでまた可能であればやりたい。