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予防と健康レポート
初めに、今回大槻先生の講義で水俣病についてのビデオを見たこともあって、環境汚染が人体に及ぼす影響という方向に目を向けながら、水俣病についての内容をまとめ、海外の論文を読むことで、自分の目指す医師像が今までより少しでも明確になるよう、医師を志す者としての視点でいろいろなことを考えていこうと思います。
そして私がキーワードとして選択した単語は" environmental pollution "(環境汚染)と" peripheral nerve "(末梢神経)です。最初はこの二つのキーワードをメインとしてレポートを仕上げていこうと考えていましたが、論文を読み進めるうちに、自分の考えと内容に多少のズレがあることに気付いてしまいました。ここで私は今回、自分の考えを中心にレポートしていくことにしました。
題名:Case-series investigation of intracranial Neoplasms at a Petrochemical Research Facility
著者:Elizabeth Delzel , Colleen Beall , Brad Rodu , Peter S.J.Lees , Patrick N.Breysse , and Philip Cole
今回この論文を読むにあたって私は今まで読んだことがない医学系の論文を英語で読むなんて自分にいきなり出来るのか、という不安でいっぱいでした。現に読み終えた今もどこまで正しく読めているのか正直なところ自信がありません。しかし自分なりに読んだ内容で考えをまとめてみました。
この論文は、1970年から1997年にかけて石油化学製品の研究施設で働く従業員6800人から17の頭蓋内新生物が確認されたことを背景として始まります。この頭蓋内新生物は自己報告と症例の関係から同じものだと考えられ、医学的な記録と病理学的な調査によって確立されました。SIR(標準発生比)は特定の職業の特徴によって多くの観察された場合と予測を比較しています。状況を全体的に見ていくと、17の頭蓋内新生物と10の頭蓋内新生物と予想される場合が見られました。この中には良性のものと脳ガンが含まれています。脳ガンのすべては男性の研究者や技術者の間で起こりました。この中の大半はある建物の中で同じ時、同じ場所で働いていました。数名は他の脳ガンについての研究に携わっていました。良性の人はこのような仕事はしてないということでした。結論として言えることは、良性腫瘍ではなく脳ガンの発生パターンは職業に原因があるということである。
ここで話は変わりますが、水俣病に関するビデオを講義で見ることをきっかけに、今回さまざまなことを考えることになりました。
これまで私が"水俣病"という言葉に携わったのは、小学校、中学校、高校で社会や日本史を学んでいる時くらいだと思います。しかし、その時は病名、どこで発生したか、原因は何か、くらいの情報しか求められませんでした。ただ単に私の視野が狭いというだけなのかもしれませんが、社会全体に目を向けてみて、同じ日本でどれほどの人が水俣病という病気を把握、理解しているのでしょうか。もしかしたらみんなの知識もこの程度しかないかもしれません。私は将来医師を目指す者として今、ここ川崎医科大学に通っています。そんな状況にあるからか、幸いにも講義時間を割いていただいたことで水俣病について学び、調べ、考える機会にめぐり合うことが出来ました。これから私がビデオを見て得たこと、考えさせられたことを述べていこうと思います。ただし、今回私が得ることの出来た水俣病に関する情報がすべてではないと思うので、ここでは私の主観に任せた感想を書いていくつもりです。
まず水俣病についてまとめてみました。
・ 水俣病:1956年頃、熊本県水俣市で発生した4大公害病のひとつ。
・ 臨床症状:知覚障害、運動障害、聴力障害、視野狭窄、言語障害などさまざまで、これらが組み合わさって発生するため、患者によって症状は違うことがある。また年齢病歴によって症状が大きく異なる。患者に共通してみられるのが末梢神経の障害や大脳小脳の皮質障害である。さらに母親が水俣病であれば、生まれてくる胎児も水俣病となり重い障害を持って生まれることもある(胎児性水俣病)。
・ 原因物質:有機水銀(メチル水銀)
・ 発生原因:1932年にチッソ水俣工場がアセトアルデヒドの生産を開始した。そして1941年まで無処理の有機水銀を水俣湾に排出した。これは工場の生産過程で使われた無機水銀がメチル水銀に変化したものである。流出したメチル水銀が海や川を汚染した。そして水俣湾内に生息する魚介類で濃縮され、汚染された魚介類を大量に摂取した住民やそうした女性から生まれた胎児たちがメチル水銀中毒、メチル水銀による神経系の障害を受けた。自然界に存在する水銀化合物の中で、メチル水銀のほとんどは、消化管(小腸)で吸収される。小腸→門脈→肝臓→全身といった流れで運ばれて蓄積し、神経系の特定部位に強い障害を起こす。その結果、それぞれの部位が持つ役割に応じた障害が起こる。これにより上のようなさまざまな症状が発生する。この他にも頭痛や疲れやすい、においや味がわかり辛い、物忘れがひどいなどの症状で、見た目には出てこないが慢性型の患者もいるようだ。
・ 経緯:1955年頃より猫の不審死が多数見られるようになった。翌年にも同様の症例の発生が確認されている。 1956年5月1日、新日本窒素肥料水俣工場院長の細川一が「原因不明の中枢神経疾患の発生」を水俣保健所に報告した。この日が水俣病公式発表の日とされている。当初の患者の多くが漁師の家庭から出たため初めは新日本窒素肥料などにより風土病との宣伝がされた。それらにより「水俣奇病」などと呼ばれ、水俣病患者や水俣出身者に対する差別意識が起こった。そのことが現在も差別や風評被害につながっている。またそれが非認定患者の潜伏や移住にいたる場合もあり、認定をめぐる訴訟にも影響を与えた。このことで水俣近海産の魚介類の市場価値は失われ、水俣の漁民たちは貧困に陥るとともに、食料は汚染された魚介類に頼らざるを得なかった。このため被害がさらに拡大していくこととなった。このような実情にあっても、水俣市にはチッソに勤める労働者が数多くいたため、漁民たちへの中傷やチッソに対する同情的な見方もあった。 1959年、熊本大学医学部水俣病研究班が原因はチッソ工場が排出する有機水銀による中毒だと発表した。しかしチッソはこれを認めず、かなりの期間会社、行政ともに対策を怠った。政府が発病と工場排水の因果関係を認めたのは1968年である。この遅延により被害がさらに拡大した。県の検診と審査会の書類審査を経ることで水俣病患者と認められる。認定を受けた患者には政府およびチッソから医療費などが請求されたが、認定を受けられなければ治療費などは患者の全額負担となってしまう。このような患者に対する救済問題が生じていた。この認定に関しては病理的ではなく政治的だという批判もある。80年代に入ると認定を受けていない患者が次々と裁判を起こした。この争いは長期にわたり、国は妥協案を提示した。多くの患者は認定をあきらめることを条件に救済金を受け取ることとなった。関西在住の原告団はこれを拒否し、窒素と国、熊本県を相手に損害賠償請求訴訟「チッソ水俣病関西訴訟を」を起こし勝訴した。国は責任に関しては認めたが判断基準の見直しは行わなかった。この見直しを求めての裁判も起こし、科学的に誤りだと証明された。
私が第一に考えたことは、"水俣病"というものはこんなに恐ろしく、歴史の深いものなのか、ということです。そもそも水俣病なんてものは、小学生の教科書にも載っているくらいだから、私の中では水俣病は過去に起こった事故であり、現在にいたってはすでに問題は解決されているものとばかり思っていました。このことで私は今まで自分が恵まれた環境で生きてきたんだな、と感じるとともに、こんなに大きな事件についてひとかけらの知識しかない自分が恥ずかしくなりました。
新聞、ニュース、インターネット。今の私たちは情報収集に苦労しない環境にいます。これからはこの恵まれた環境を娯楽に使うばかりでなく、このような産業からくる医療問題などについて、医学部学生としての自覚を持って視野を広げていこうという考えを持つことになりました。
これ以上に驚いたことは、医師が"水俣病"と診断したから水俣病患者と認められるのではなく行政が判断して水俣病患者と認めるということです。一度聞いただけならありえない話のように思えますが、経緯に沿って考えていくと、水俣病患者認定問題が複雑に絡み合い、矛盾していくのも分かる気がします。
ここで私は医師が診断を下しているのに国から認められないようなことがあるのは矛盾していておかしい、という印象を持っていました。しかし、行政側について水俣病かどうかを審査しているような医師がいることを無視しているわけではありません。
"患者側について地元住民を水俣病と診断する医師"と"政府側について水俣病患者を認定する医師"このどちらの医師も同じ国家試験を合格し、同じ医師免許を持っています。このように全く反対の立場に立っていても彼らは同じ医師なのです。
私は将来、自分がどこで何をしているかは分かりません。しかし今回このレポートの作成を通して、今まで頭にはあったけれどぼんやりしていたことが一つハッキリ見えてきた気がしました。それは、自分がどのような立場に立ったとしても患者と真正面から向き合っていけるような医師になりたい。ということです。最近は日々の生活に忙しく、それに満足してしまって、理想の医師像をじっくり考えることは以前より少なくなりました。しかし今回、現実に自分のまわりで起こっていることに対して目を向けることが、このままではいけないんだと自分に活を入れるきっかけになった気がします。これからは、将来まで私が追い求め続けられるような医師像を川崎医大で過ごす時間の中で見つけていければと思います。