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1. はじめに
水俣病は、魚介類に蓄積された有機水銀を経口摂取することによって起こる神経系の疾患である。
 水俣病には後天性のものと、先天性(胎児性)のものとがあるが、後天性水俣病の主要症状は、求心性視野狭窄、運動失調(言語障害、歩行障害などを含む)、難聴および知覚障害である。また、胎児性水俣病は、知能発育障害、言語発育障害、咀嚼嚥下障害、運動機能障害、流涎などの脳性小児麻痺様の症状を呈する。

2.選んだキーワード:有機水銀−視力障害、有機水銀−平衡障害

3.選んだ論文の内容の概略
 水俣病(メチル水銀中毒症)の病因について最新の知見に基づいて考察した。
水俣病の公式発見は、1956年5月1日とされている。西村らによると、チッソ水俣工場のアセトアルデヒド産生工場内でメチル水銀が生成された真の原因は助触媒の変更にあったとのことである。すなわち、1932年からアセトアルデヒドの生産が開始されていたが、1951年8月以降、水銀触媒の活性維持に用いる助触媒を、それまで使用していた二酸化マンガンから硫化第二鉄に変えたことにより、メチル水銀生成が急増して水俣湾に排出された。1953年の頃から神経症状を持つ患者が発生し始めているのは、この助触媒を変更したことが原因であることが実証された。工場からのメチル水銀排出は、政府統一見解の出された1968年まで続いたのである。この17年間の大量のメチル水銀が水俣湾の魚介類を汚染して、食物連鎖で人やネコがメチル水銀中毒症に罹患したのである。その後の魚介類の汚染は激減しており、1976年以降の患者発生は見られない。この事実は慢性発症水俣病の概念を変えるものであり、長期経過の水俣病患者は、高濃度汚染時期にメチル水銀中毒症に罹患した後遺症に過ぎないと考えられるに至った。
1968年に水俣病の原因がメチル水銀中毒症であると公的に認められるまでさまざまな原因説が出されたが、1959年にはすでに熊本大学医学部水俣病研究班が有機水銀中毒であるとの見解を出していた。当時、熊本大学医学部病理学教室の竹内教授らが、病理学的に有機水銀中毒であることを実証していることは周知のところである。その直後に、チッソ社内ではアセトアルデヒド工程の排水を使ってネコ実験が開始され、チッソ付属病院の細川らのネコ実験があり、2001年に初めて英文論文として公表された。高濃度メチル水銀の影響で初期病変としての脳浮腫が招来され、脳障害の選択性が出現し、臨床症状で注目すべき視野狭窄の発症機序も解明された。四肢末端の感覚障害が、汚染時期が限定されたことにより、末梢神経の再生によって改善することも判明した。竹内・衛藤は、1956年から1995年までの40年の間、熊本大学医学部病理学第二講座でなされた450例のヒト水俣病剖検例を1冊の本にまとめて公表している。コモン・マーモセット実験を踏まえて、最近解明された知見をもとに水俣病の病理発生機序について報告する。
1995年の水俣病問題の政治解決がなされた後、新しい事実が明るみに出てきた。特に、メチル水銀が大量に直接水俣湾に排出され、魚介類の鰓を通して、また消化管から直接メチル水銀が入っていった事実が判明したことは、水俣病の病理発生の考え方を修正する必要に迫られた。
コモン・マーモセットを用いた実験で、劇症型水俣病、急性発症水俣病および急性発症後の長期生存例を再現できたことが新知見をもたらした。大脳・小脳のメチル水銀における神経細胞への直接傷害に関する研究報告がなされている。Cavanaghは、メチル水銀がRNAを合成するリボソームを傷害するため、神経細胞の中でも特に小型の顆粒細胞が傷害されやすいと報告している。しかしながら大脳においては、必ずしもU層、W層の顆粒細胞が脱落するのではなく、軽症ないし中等症ではU層、V層に神経細胞の脱落とグリオーシスを認める。三浦らは培養細胞を用いて神経細胞の微小管の特異的毒性を確認し、LeBelらは活性酸素毒性が小脳顆粒細胞死に関係していると報告している。メチル水銀中毒の発生因子として、初期病変の脳浮腫が重要であることが実証された。二十数年前に提唱された、深い脳溝の周囲に局在する病変がメチル水銀中毒に特徴的であるとする、米国ワシントン大学のCheng−Mei Shaw名誉教授の仮説をここに実証できたと考える。
 メチル水銀中毒では、実験動物の種によって毒性反応が異なり、げっ歯類では末梢感覚神経に強い病変を来すことが知られている。霊長類でも種差があり、アカゲサル、リスザルのメチル水銀中毒において、末梢神経病変は認められていない。しかし、同じ霊長類であるコモン・マーモセットには、メチル水銀中毒症の末梢神経病変が明らかに認められた。また、新しい手法である免疫組織化学を応用して、コモン・マーモセットとともにヒト水俣病患者にも末梢神経病変の存在を証明できた。
 
次に、新潟水俣病(有機水銀中毒症)の神経耳科学的長期追跡調査の結果をもとに水俣病の障害について考察した。
 1965年、新潟県阿賀野川地区に発生したメチル水銀中毒症は新潟水俣病として熊本県の水俣病とともに公害病に認定された。その臨床像はHunter−Russell症候群として、四肢口囲の知覚障害、運動失調、平衡機能障害、視野狭窄、聴覚障害などの特徴が見られた。この中、神経耳科的所見は他覚所見として、脳神経症状との相関が注目され、認定審査に重視されてきた。
 その後、中毒症の長期化、慢性化、患者の高齢化に伴って、神経耳科的所見の病像も変化しており、発生時(1968−1978)より10年以後に追跡調査が行われ、その推移が報告されてきた。しかしながら、その病像は長期経過による個人差が著しく、中毒症の差によるものなのか、高齢化に伴う差によるものなのか不明になってきた。
 これら新潟水俣病の追跡調査患者中、第1回追跡(1986−1987)より第2回追跡(1991−2000)を施行し得た症例36例を中心に、神経耳科学的に長期追跡後の推移について考察を行った。
 神経耳科学的検査項目と方法は、純音聴力検査、自発眼振(注視眼振)、頭位眼振、前庭反応(固視抑制効果検査fixation suppression test,F-S test)、視運動性眼振検査(OKN)、視標追跡検査、体平衡機能検査(Mann検査、足踏み検査)の7項目を中心に追跡した。
 従来、このような神経耳科学的追跡調査は土生(1979、1994)の熊本水俣病の典型例の追跡のみであった。これらの症例は1956年より1978年、さらに1993年までの複数回の追跡で、聴力検査では年齢45歳までは改善傾向(53.6% 14/22耳, 64.3% 18/28耳)が認められ、悪化例(12.5% 4/32耳)は比較的少なかった。年齢的に45歳まで改善が認められた現象について、今回の症例では改善例(3例)は少なく、今回の症例の発症年齢の平均が48.0歳で、高齢化に伴う影響と推察された。また、土生(1979,1990)の報告では、比較的聴覚障害の程度が軽度(20−40dB)で改善例が多い傾向が認められたが、今回の症例では軽度、中等度、高度に認められた。なお、語音聴力の推移については、今回は系統的、経時的に追跡していないが、土生(1979,1994)の報告では45歳以上に悪化例が多い傾向を示していた。以上のごとく、今回の聴力障害の推移では、全般的に加齢現象が見られても不変例が多い傾向(62.5% 45/72耳)が見られており、平衡障害例に比しても増悪例が少ない傾向(33.3% 24/72耳)は注目される。
 次に、平衡機能障害の推移についてみると、土生他(1979,1994)の報告では、自発眼振などが経過とともに消失する例が多く(67% 6/9例)、頭位眼振も方向交代性などの中枢性障害を示唆する所見も認められたが、今回の症例に比して改善例が多い傾向が認められた。この点、新潟水俣病では自発眼振(36% 13/36例)、頭位眼振(31% 11/36例)、など増悪例が多い傾向を示した。この点、高齢認定者が多かった傾向も否定できない。また、視運動性眼振の推移では垂直性の障害は熊本水俣病でも特徴的に障害されており(84.6% 11/13例)、発症30年以内年齢55歳未満でも増悪例が見られており、加齢現象とは推論されず、中毒症による増悪と認定している。新潟水俣病の視運動性眼振障害も垂直性障害が先行しており、比較的早期に増悪する傾向が見られた。なお、視標追跡検査所見も垂直性障害が著しく、saccadic patternを示す例が多かった。この点、視運動性眼振の垂直性障害について、中脳領域の障害は病理的に見られており、中毒症による後頭葉の視覚領域の障害とともに関連するものと推察される。
 前庭反応の推移については土生(1974,1994)の報告には見られていないが、今回の症例の過半数に近い症例にDPまたは両側反応低下が見られており、最終的に高頻度(72% 26/36例)の病的所見摘発率が認められた。とくに、前庭反応の固視抑制効果検査(FS-test)で両側性障害(FFS)が長期にわたって見られた現象(3例)は、小脳・脳幹障害を示唆する所見として注目される。なお、反応低下については、両側、一側ともに中枢、末梢性障害が推定されるが、内耳障害については病理的に確認されていない。
 また、体平衡機能では土生(1994)の報告でも高率(87.5% 14/16例)に見られており、増悪例が7例(53.8%)に見られた。今回の症例では体平衡障害では改善14%、不変55%、増悪31%を示していた。一部若年者に改善例も見られたが、共同運動障害との相関性は高く、水俣病の病巣が小脳を中心とした失調症による現象であるためと推論される。この点、白川(1984)も5年間の追跡調査によりMann検査と指鼻検査との相関性を報告している。さらに、土生(1994)は体平衡障害と視運動性眼振障害の相関性にも注目しており、発症30年以上、55歳以上に悪化例を認めておらず、高齢化に伴う影響については否定的であった。また、眼振所見の改善も長期追跡例(30年以降)に認めており、高齢化のみによる増悪化には否定的で、中毒症の改善に伴う眼振所見の改善も若年者と中毒汚染の軽症とともに存在するものと推察した。この点、荒木他(1986)は慢性水俣病診断の問題点について、高血圧、脳血管障害、耳障害、運動器(頸椎症)、糖尿病との合併を追跡しており、高齢化に伴う合併症は比較的少ないが、考慮すべきであると推察している。したがって、今回の症例も高血圧、脳血管障害、糖尿病の合併症も比較的少なかったが、個体因子の影響が大きいものと推察した。
 治療については、初期にはペニシラミンを内服したが、効果なく、ATP、ニコチン酸、ビタミン剤を投与し、神経内科の追跡を受けており、一過性の影響で対症療法により固定化している。
 いずれにしても神経耳科学的所見の長期追跡(20年以上)では聴力障害と体平衡障害は比較的軽度の障害に推移しているのに、平衡機能障害では自発眼振、前庭反応、視運動性眼振(垂直性)の増悪が著明であった。高齢化現象に伴う変性障害か、中毒症の進展に伴う障害かは個々の症例による個人差が著しく、症例毎の判定が必要であり、全体的な判定は剖検例でも難しく、水銀顆粒の証明しかなく、若年者には改善例も認めており注目された。
 なお、聴覚系・前庭平衡系反応の長期的高齢化変化についてはEnrietto(1999)によると平均82歳5年以上の追跡で、純音聴力では年平均1dB、語音聴力では年平均2dB、語音明瞭度では年平均2%の増悪が見られ、前庭系でも前庭動眼反射の反応で振幅依存性の利得低下、peak velocityが増加するPhase lead(位相の先導)が見られるとの報告も見られる。しかしながら、聴覚系と前庭平衡系の高齢化は相関性がなく、いずれの系でも中枢神経系の変化が重要な役割を占めていると見られている。したがって、水俣病の聴覚・平衡系の高齢化変性もそれぞれの感覚系の変性現象は異なっており、中毒症の影響も区々であり、個体差も著しいものと推論された。
 
4.水俣病患者の大脳選択的障害機序について、コモン・マーモセットを用いた実験により初期に脳浮腫が起こることにより深い脳溝の周囲の皮質は圧迫され、循環障害を招来することによりメチル水銀の毒性作用が増長され、皮質神経細胞の破壊・消滅を来すことが考えられる。つまりメチル水銀中毒の発生因子として、初期病変の脳浮腫が重要であることが実証された。
鳥距野の前位部の障害機序も、メチル水銀中毒の初期病変が脳浮腫であることを踏まえると、鳥距溝は前位部が深く、その部の皮質は周囲からの圧迫を受けやすいために病変を形成する。一方、後頭極は脳溝が浅いか、または脳溝を欠くために皮質病変を招来しないと考える。
小脳病変の発生機序については、コモン・マーモセットの実験から、初期には小脳にも大脳と同じく脳浮腫が見られ、小脳脳溝が圧迫されている。そのために、顆粒層上層部に循環障害を招来して神経細胞が破壊・消滅すると考えられる。
感覚障害に関しては、コモン・マーモセットの実験で、坐骨神経にBodian染色を施すと、対照例では軸索配列は規則正しいが、メチル水銀中毒の初期では髄鞘には変化がなく、軸索変性が著明であることが実証された。水俣病での剖検例では検索が十分になされていないため、軸索病変の有無は確認できていない。
また、新潟水俣病認定患者36例について、申請時(1968−78)、第一次追跡(1980−87)、第二次追跡(1991−2000)と2回以上追跡し、神経耳科学的推移を中心に症例毎に判定したところ、聴力障害と体平衡障害については比較的軽度の増悪であったが、自発眼振、温度眼振反応、視運動性眼振(垂直性)の増悪は著明であった。これらの所見は中毒症の増悪によるものなのか長期化に伴う高齢者の老化変性によるものかは個体差が著しく不明であったが、若干改善例も認められ、不変例も多く認められた。

5.1995年の水俣病問題の政治的解決がなされた後、新しい事実が明るみに出てきた。一例としてメチル水銀が体内へ入る経路に新しい事実が判明したことを述べた。コモン・マーモセットを用いた実験では上記のような新知見がもたらされた。このようにいまだに水俣病については判明していないことが少なくなく、事実の解明とより一層の研究によりさらなる新知見がもたらされることが望まれる。
 また、メチル水銀中毒では、実験動物の種によって毒性反応が異なり、霊長類でも種差があり、アカゲサル、リスザルのメチル水銀中毒において、末梢神経病変は認められていない。しかし、同じ霊長類であるコモン・マーモセットには、メチル水銀中毒症の末梢神経病変が明らかに認められた。このことから、コモン・マーモセットを用いた実験は他の霊長類を用いるよりも有用な実験結果が得られると考えられる。
なお、長期の追跡調査は非常に重要であるが、上記のように長期追跡調査においては長期化に伴う高齢者の老化変性と中毒症の増悪を慎重に見極める必要がある。水俣病の発生からすでに長い年月が経過しているため、患者の多くは高齢者になっていることは容易に推測できる。このため今後の調査研究においてはこのことを十分理解した上で考察を行う必要があると考える。