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予防と健康ブロック レポート
1.はじめに
4/7,4/14に供覧したビデオの内容を踏まえて、レポートを提出する。
レポートはキーワード2つで検索した科学論文(私の場合は日本語キーワードなので2編の論文)を採用し、作成する。
そして自分自身で考えたこと、将来志す医師像について書く。
2.選んだキーワード
中毒 視野狭窄
3. 選んだ論文の概略
A. 環境問題と内科学−水俣病の経験から−
1. 水俣病の経験
水俣は熊本県と鹿児島県の県境に近い人口約4万の小都市。
この小都市にチッソ株式会社があり、市長は元工場長でこの会社が町の死活を
握っていた。
昭和30年頃、この町に得体の知れない病気が次々と発生し、地元の医師会、保健所、市民病院などが中心となり「水俣奇病対策委員会」を作ったが対応しきれなくなり、31年8月、熊本大学医学部にその解明を依頼してきた。
1) 疫学的状況
水俣湾の袋湾に面した南西部の一帯で患者が多発し、その殆どが漁民とその家族であった。加えてその部落の飼い猫も奇妙な行動をとり死亡していたので、魚を介しての中毒という線が濃厚になって来た。
2) 臨床面よりの取り組み
未知の疾患を解明するためには、まず患者の病状・所見を性格に理解する必要があった。そのために、すべての患者の諸動作をフィルムに納めることからはじめた。
また患者の特徴として、喋り方がすべて子供っぽくなっていたのでその言葉を録音し、一人一人を性格に記録していった。
3) 臨床的観察
当時、熊大病院は空襲で消失していたので、約2km離れたトタン葺きの陸軍病院跡を借り患者を収容していた。ここに収容していた患者は10名余りで、その後は新しい患者が発生すると土曜・日曜を利用して、鈍行で二時間かけ水俣に着き、患者宅に赴いて診察し、撮影していた。
4) 天佑の本
著者が内科学会出席のために上京したときに医学書店を回り、中毒の専門書を探し求めた際に見つけた本のうちの一冊が水俣病解明の大きな原動力となった。その本はNIHのVon Oettingen著のPOISONINGである。この本は、「頭痛」「めまい」といった症状を上げると、その下にその症状を惹き起こす毒物名が列記されていた。そこで、殆どの水俣病患者に認められた「視野狭窄」の項を開くとalkyl mercuryがトップに挙げられていた。またataxiaの項にもalkyl mercuryがトップに挙げられていた。さらにこの本の後半には、簡単な解説がアルファベット順に並べられていた。alkyl mercuryの項には視野狭窄、運動失調、難聴、四肢の感覚障害など、本病と似通ったことが書かれており、Hunter D,Bomford RR and Russell DS:Quart j Med9:193,1940 の文献が記載されていた。筆者はこの文献を取り寄せて読んでみると水俣病とよく似ていた。
5)2年間の苦悩
2年間の苦行の末、詳細な観察のできた患者が34例に達し、症状・所見を集計 すると視野狭窄、難聴、言語障害、運動失調、感覚障害、振戦等は70〜90%に 達した。
6) 尿中水銀量
こうして本病は臨床的に有機水銀中毒に一致することが考えられ患者の尿中水銀量を測定すると健康人の値は15γ/?以下であったのに対し、水俣病患者では115〜134出会った。更にキレート剤であるBAL投与例では、前値45γ/dayであったのがBAL投与後190γ/dayと増加し、EDTA-Ca投与でも同様の成績が認められ、有機水銀中毒である可能性がより一層強くなった。
7) 発病猫(魚介類投与猫)
水俣湾内の岩石に生育しているヒバリガイモドキ(通称黒貝)を採取し、天日に干して持ち帰り猫に食べさせた。22〜35日後に発病。自然発病猫と同じ病状を辿り死亡。
有機水銀の一つであるエチル燐酸水銀を投与しても貝投与実験と同様の結果であった。
8) 有機水銀中毒と結論
臨床所見、尿中水銀排泄増加、猫実験の結果と脳の病理所見も有機水銀中毒に一致し、さらに水俣湾内のヘドロ、魚介類から大量の水銀が検出され、本病の原因は有機水銀中毒ということが確実になった。熊本大学水俣病研究班がこれを発表したのが昭和34年7月であった。
2.水俣病の経験から環境問題への提言
1)時代背景
昭和31年ごろは、1950年の朝鮮戦争勃発を契機として、すべての産業が上向きになり、戦後日本の復興のためなら多少の犠牲もやむを得ないという風潮があった。工業界にも国にも会社擁護の態度があり、研究に対して非協力的であった。昭和34年に、水俣病の原因は有機水銀であると発表してから、国が認めるまで9年間もかかった。
医学の分野でも、中毒に関する専門の研究機関は皆無であり、日本語の専門書は一冊も無く、何を基準に研究を進めるべきか、どこにも拠り所はなく、手探りでやるしかなかった。
2)内科医としての態度
著者は「この奇病といわれているものも内科疾患の一つである。それなら一人でも多くの患者について、多種多様な所見を正確に捉え、公約数的クライテリアを求めて、その本態を世界の文献に伝えようではないか」と考え、それに向かって努力を重ねた。
環境汚染により、新しい形の中毒が何時、何処で、どのようにして、起こるか判らないが、一人一人の患者を詳細に見定める態度を忘れないで欲しいと言う。
3)公害被害者認定への対応
水俣病問題が起こるまでは、公害という概念は日本では真剣に取り上げられることはなかった。
公害ということになれば被害者への補償・救済がつきものであり、そのためには認定という作業が必要になる。著者は被害者の認定に関わる業務に関しては、国が指定した医師以外に、他の職業人、例えば法律家を加えた専門の機関がその任にあたることが望ましいと考える。診断と認定業務は別種の事項である。そこには純医学的観点以外に、社会的考慮も加わることが多いからである。
B.異なる地域住民における上肢運動機能の定量的評価
この文献は熊本大学大学院自然科学研究科によって研究されたものである。
メチル水銀中毒症は体内に蓄積したメチル水銀によって主に脳の中枢神経と抹消神経が侵され、手足や口の周りの感覚障害のほか、運動失調、聴力障害、視野狭窄、言語障害などの症状を示す。本研究では、著者らの研究室で開発したシステムを用いて、有明海に面した鹿児島県出水市潟地区住民と、日向灘に面した宮崎県児湯郡川南地区住民を対象に、指標追跡描円課題を課し、上司運動機能の評価を試みた。その結果、潟地区住民は同年代の健常者と比較して、ターゲットからのずれ、遅れ、描円の滑らかさ、震え成分において表れ、潟地区住民の方が健常者から逸脱した値を示す例の割合が多いことがわかった。また、上肢運動の総合評価において、潟地区住民のデータは脊髄小脳変性症患者と、川南地区住民のデータはパーキンソン病患者と類似した結果を示した。
4. 選んだ論文の内容と、ビデオの内容から、自分自身で考えたことを、将来医師になる目で捉えた考察
メチル水銀中毒症は1940年に報告されたイギリスを始め、日本、アメリカ等、世界各地で発生している。しかし日本で起きた水俣病は国に非があると謝罪したのは2004年10月15日のことである。国に認められるまでに、半世紀以上もかかったことには、中毒に対する医学の遅れだけではなく、わが国の時代背景や社会的、政治的側面も大きく影響した。4月7日のビデオには「水俣病である」と国の認定が下りなければ保険の対象にならず、すべて患者個人の負担になり、地元医師が水俣病と診断したところで国が認めないから救済どころか自分の首を絞める結果になる。という実態が映し出されていた。確かにすべての患者の補償をしていたのではチッソは莫大な額の賠償金を支払うことになり、あっという間にチッソは倒産し、残された患者に対する補償を行う者がいなくなってしまう。だから国としてもなかなか引き下がることができなかった。論文の概略にも載せたが、これには当時の時代背景が大きく影響している。当時は敗戦後の経済復興や高度経済成長の時代で、国は住民より大工場・大企業を大切にしていた。だからチッソの味方をして、いよいよ逃げ場がなくなってから、すべてチッソの責任にした。新潟で水俣病が発生したときの状況も悲惨なものだった。水銀が含まれた廃水をサイクレーターでろ過しても水銀は取り除けないと知りつつ「サイクレーターがあるから大丈夫ですよ」とあたりまえのように海に廃水を垂れ流していた。このときも国の検査機関は事実を知りながら、止めさせることをしなかった。
水俣病問題はすべて解決したわけではない。まだまだ明らかになっていない病状や、患者も潜んでいるだろう。我々現代に生きる人間がそういったことに蓋をして知らないふりをしている限り、公害問題の解決はいつまでたっても終わらないと思う。
私が将来医師になり、新しい形の環境汚染により、患者が受診してきたときに、一人一人の患者に対して正しい態度であたることが大切であると考える。
5. まとめ
今回選んだ2つの論文はどちらも水俣病に関連したもので、メチル水銀中毒症について書かれていた。だから水俣病に関して新しい知識を得ることができし、環境汚染で患者が発生した場合、問題を解決するには様々な弊害が出てくることも学べ、いい経験になった。