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はじめに
水俣病とは、工業廃物に含まれるメチル水銀に汚染された魚介類を経口摂取することによって起こる神経疾患である。末梢感覚喪失、構語障害、運動失調、聴覚および視覚喪失などを特徴とし、1956年5月1日に熊本県の水俣湾周辺で公式に確認された。今では日本における公害病としてその名を広く知られている。この水俣病について、病気の原因や臨床症状、また補償を巡っての訴訟などの様々な視点から詳しく調べてみることにした。
キーワード
メチル水銀
視野狭窄
論文の概要
環境問題と内科学―水俣病の経験からー
徳臣晴比古 日本内科学会雑誌 第91巻 第12号
1. 水俣病の経験
水俣は熊本市の南方の、鹿児島県との県境に近い人口約4万人の小都市である。この街にチッソ株式会社が君臨し、市長は元工場長であり、この会社が町の死活を握っていたといっても過言ではない。昭和30年ごろは日本の産業の興隆期で、この会社も煤煙を空高く吹き上げて増産を謳歌していた。この町に得体の知れない病気が次々と発生し、地元の医師会、保健所、市民病院などが中心となり「水俣奇病対策委員会」を作ったが対応しきれなくなり、31年8月、熊本大学医学部にその解明を依頼してきた。
1) 疫学的状況
患者が多発したのは水俣湾の奥座敷で、袋湾に面した南西部の一帯で、患者のほとんどが漁民とその家族であった。加えてその部落の飼い猫があちこちで奇妙な行動を取り、最後は狂ったように海に飛び込んだりして死んでいた。最初は脳炎などが疑われたが、調べてみると炎症所見は全くなく、漁民と猫を結ぶとなると中毒、しかも魚を介しての中毒という線が濃厚になってきた.。
2) 臨床面よりの取り組み
道の疾患を診断、解明するために、我々臨床に携わるものとしてまずやらなくてはならないことは、患者の病状や所見を正確に把握して、そのクライテリアを確立する以外にないと考えた。診ることのできた患者のすべて手の病像を映し出し、言葉を録音することによって、ひとりひとりを性格に記録し続けた。現在と比べても、当時は全ての点で未開の時代であった。
3) 天佑の本
内科学会出席のために上京した際に、医学書店を回り、中毒の専門書を捜し求めた。中毒の専門書は当時非常に少なく、特に和書では皆無であった。ここで見つけた一冊の本が水俣病解明の大きな原動力になった。その本はNIHのVonOettingen著のPOISONINGである。そこでほとんどの水俣病患者に認められた「視野狭窄」の項を開いてみると、alkylmercuryがトップに挙げられていた。Alkylmercuryの項には、視野狭窄、運動失調、難聴、四肢の感覚障害など、本病と似通ったことが書かれていたのだ。
4) 尿中水銀量
それから二年ほどを費やし、臨床的観察を積み重ねた結果、本病は有機水銀中毒であると考えたので、尿中水銀量を測定した結果、健常者はいずれも1?当たり15γ以下であるのに対し、水俣病患者は115〜134γであった。これにより、有機水銀中毒である可能性がよりいっそう強くなった。
5) 発病猫
もうひとつ奇妙な事実は、先にも述べた猫の発病であった。飼い猫の発病は患者発生の予兆と恐れられていた。発病した猫を詳細に観察すると、痩せて、毛はつやを失い、よろよろと歩いていた。階段を下りさせると踏み外して転び、持ち上げて落とすとそのまま胴体で着地した。その状態が何日か続いた後、闇雲に突進や逆立ちを繰り返して死亡してしまった。そこで、健康な猫に、水俣湾内で採取した黒貝を食べさせたところ、自然発病猫と同じ症状をたどり死亡した。さらに、有機水銀のひとつであるエチル燐酸水銀を投与した場合も、貝のときと同様の結果が得られた。
6) 臨床所見尿中水銀量増加、猫実験の結果などから、本病の原因は有機水銀中毒と確信しているところへ、脳の病理所見も有機水銀中毒に一致するとの報告があり、また、水俣湾のヘドロや魚介類からも大量の水銀が証明された。こうして熊本大学水俣病研究班が「魚介類を汚染している毒物として、水銀が極めて注目されるに至った」と公表したのは昭和34年7月のことであった。
2. 水俣病の経験から環境問題への提言
水俣病問題が起こるまでは、公害という概念は日本では真剣に取り上げられることはなかったように思う。郊外ということになれば被害者への補償や救済がつきものであり、そのためには認定という作業が必要になる。我々は被害者の認定にかかわる業務に関しては、国が指定した意思以外に、ほかの職業人、たとえば法律家を加えた専門の機関がその任に当たることが望ましいと考えている。診断と設定業務は別種の事項である。そこには純医学的観点以外に、社会的考慮も加わることが多いからである。医師の眼で診断に踏み切れないケースも、意思以外の眼を加えて判断することになれば、トラブルも少なくなるのではないかと考えるのである。
水俣病(メチル水銀中毒症)の病因についてー最新の知見に基づいての考察―
衛藤光明 最新医学 57巻
はじめに
水俣病の公式発見は、1956年5月1日とされている。1932年からアセトアルデヒドの生産が開始されていたが、1951年8月以降、水銀触媒の活性維持に用いる助触媒を、それまで使用していた二酸化マンガンから硫化第二鉄に変えたことにより、メチル水銀生成が急増して水俣湾に排出された。1953年ごろから神経症状を持つ患者が発生し始めているのは、この助触媒を変更したことが原因であることが実証された。工場からのメチル水銀排出は、政府統一見解の出された1968年まで続いたのである。この17年間の大量のメチル水銀が水俣湾の魚介類を汚染して、食物連鎖でヒトやネコがメチル水銀中毒症に罹患したのである。その後の魚介類の汚染は激減しており、1976年以降の患者発生はない。この事実は慢性発祥水俣病の概念を変えるもので、長期経過の水俣病患者は、高濃度汚染時期にメチル水銀中毒症に罹患した後遺症に過ぎないと考えられるに至った。
高濃度メチル水銀の影響で初期病変としての脳浮腫が招来され、脳障害の選択性が出現し、臨床症状で注目すべき視野狭窄の発症機序も解明された。四肢末端の感覚障害が、汚染時期が限定されたことにより、末梢神経の再生によって改善することも判明した。本稿では、コモン・マーモセット事件を踏まえて、最近解明された知見をまとめ、水俣病の病理発生機序について報告する。
水俣病の病理発生機序
1、水俣病患者の大脳選択的障害機序について
ヒト水俣病冒険霊では、大脳では鳥距溝周辺の鳥距野、中心溝周辺の中心後回および中心前回、シルビウス溝周辺の中心後回および横側頭回に選択的障害が見られる。臨床症状もその病変部位に応じて、視野狭窄、視力障害、感覚障害、運動障害、難聴が出現する。
コモン・マーモセットを用いて、この大脳選択的障害を実験的に証明した。メチル水銀を多量投与して、症状が出始める直前を見計らって生前にMRIをとり、その直後に剖検した症例で脳浮腫を確認し、さらに剖検脳においても鳥距溝の浮腫を確認した。
2、視野狭窄の発生機序
水俣病では、両促成求心性視野狭窄が出現する。病理学的には、鳥距野の前部の病変が後頭極よりも強いことが分かっている。また解剖学的に、視野の支配領域で鳥距野の前位部が視野の周辺部を支配し、後極部が視野の中心部を支配することが知られている。鳥距野の前位部の傷害機序も、メチル水銀中毒の初期病変が脳浮腫であることをふまえると、鳥距溝は前位部が深く、その部の皮質は周囲からの圧迫を受けやすいために病変を形成する。一方、後頭極は脳溝が浅いかまたは脳溝を欠くために皮質病変を招来しないと考える。
3、小脳病変の発生機序
水俣病患者には、小脳病変で小脳性失調症が出現する。小脳病変では、大型神経細胞であるプルキンエ細胞は比較的保たれるのに対して、プルキンエ細胞直下の細胞が選択的に傷害されることが知られている。コモン・マーモセットの実験から、初期には大脳と同じく脳浮腫が見られ、小脳脳溝が圧迫されている。そのために、下流層上層部に循環障害を招来して神経細胞が破壊、消滅すると考えられる。
4、感覚障害の責任病巣
水俣病の感覚障害は、四肢末端のしびれ感で始まる。感覚中枢である中心後回には明らかに病変を認める。コモン・マーモセットの実験で、坐骨神経にBODIAN染色を施すと、対照例では軸索配列は規則正しいが、メチル水銀中毒の初期では髄鞘には変化はなく、軸索変性が著名であることが実証された。水俣病では、脊髄後根神経節は比較的保たれている。そのために末梢神経は再生が可能である。感覚障害を考えるときは、メチル水銀の汚染時期を考慮する必要がある。つまり、水俣病発症初期には末梢神経、特に知覚神経の軸索病変が先行する。
おわりに
1995年の水俣病問題の政治解決がなされた後、新しい事実が明るみに出てきた。特に、メチル水銀が多量に直接水俣湾に排出され、魚介類の鰓を通してメチル水銀が入っていった事実が判明したことは、水俣病の病理発生の考え方を修正する必要に迫られた。コモン・マーモセットを用いた実験で、劇症型水俣病、急性発症水俣病および急性発症後の長期生存例を再現できたことが新見地をもたらした。大脳、小脳のメチル水銀中毒における神経細胞への直接傷害に関する研究報告がなされている。Cavanaghは、メチル水銀がRNAを合成するリボソームを傷害するため、神経細胞の中でも特に小型の顆粒細胞が傷害されやすいと報告している。メチル水銀中毒の発生因子として、初期病変の脳浮腫が重要であることが実証された。また、メチル水銀中毒では、実験動物の種によって毒性反応が異なるが、コモン・マーモセットには、メチル水銀中毒症の末梢神経病変が明きらか認められた。また、新しい手法である免疫組織学を応用して、コモン・マーモセットとともにヒト水俣病患者にも末梢神経病変の存在を証明できた。
考察
徳臣晴比古氏の「環境と内科学―水俣病の経験からー」という論文は、水俣病が発症した当時に病気の解明に携わった著者が、厳しい状況の中様々な手法で水俣病の原因を究明していく過程が綴られており、衛藤光明氏の「水俣病(メチル水銀中毒症)の病因についてー最新の知見に基づいての考察―」という論文は、水俣病発生の真の原因として、助触媒の変更があったことが公表されてからの水俣病発症の考え方の修正や、コモン・マーモセットを用いた実験による病理発生の機序について、詳しく述べられている。
徳臣氏の論文は、ビデオで見た長年にわたる訴訟に関わることにも触れている。当時は1950年の朝鮮戦争を契機として、全ての産業が上向きになり、戦後日本の復興のためならば多少の犠牲はやむを得ないという風潮があった。水俣病もその余波として起こった事で、国も会社を擁護し、医学者の病気に対する研究にもあまり協力的ではなかった。つまり、公害というものに対する意識がとても低かったのだ。水俣病であると国に認定してもらえなかった患者は、多額の医療費を負担しなければならず、苦しい生活を強いられる事となった。この様な状況の下、和文の中毒の医学書もなく、研究費もろくに出ないにも関わらず、著者は奇病と呼ばれたこの病気も内科疾患のひとつであることに変わりはないと考え、それなら一人でも多くの患者について所見を正確に捉え、その実態を文献として残そうと、何度も水俣に出向き、患者の所見を記録し続けた。この献身的な活動のおかげで、奇病と恐れられた水俣病の正体が明らかになったのだ。著者の内科医としての態度はすばらしいと思う。
衛藤氏の論文からは、高濃度となったメチル水銀がどのようにして生体に様々な症状を引き起こしたのかということについて詳しく知る事ができた。私の選んだキーワードであった視野狭窄の発症機序についても、メチル水銀中毒の初期病変である脳浮腫が、視野をつかさどる鳥距野の、特に周辺部を支配する前位部が傷害されることで、視野の周辺部の視力が失われ、視野狭窄に至ることが分かった。
まとめ
水俣病についての論文を読むことで、この公害病についての知識をより深める事ができた。水俣病をはじめとする公害病が発生したことによって、国の復興に急ぎすぎた日本に「環境」という概念が生まれたと思う。新しいものを創り出そうとするとき、それによって失われてしまうもの、傷つけられてしまうもののことまできちんと計算し、配慮できるということが、これからの開発に必要不可欠なのではないだろうか。