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 水俣病のことを知ったのは、中学生の社会の時間でした。高校の現代社会の時間で も習いました。公害病の勉強の中で「イタイイタイ病」や「四日市喘息」と共に習っ たことを覚えています。工場の排水に含まれた水銀が元で起こった公害病である、と いうことなどを習いました。しかし、このビデオを見るまで、現在まで続いている病 気とは自覚できていませんでした。戦後に起こった病気ならば、今でも苦しんでいる 人がいるに違いないのに、私はもう解決している問題と思っていたのです。



 このビデオを見て、今でも苦しんでいる人、戦っている人がいることを知ると共 に、多くの疑問も浮かびました。特に国に対して疑問を感じました。なぜ国は科学的 根拠が無いと証明された判断基準をどうして頑なに守り続けるのでしょうか。それな らば、科学的根拠が無いから、と突っぱねた食品衛生法を昭和32年に実行すれば、 これほど水俣病が広がることも無く、裁判で争うこともなかったのでは、と思いま す。また、国側が最高裁で敗訴したのにどうしてこれまでと同じ態度なのでしょう か?政治決着を一万人としたために引き下がれないのでしょうか?しかし、その政治 決着をした人達の中には、本当は関西の人のように戦い続けたくともできずに、諦 めて政治決着をした人もいて、国が態度を改めてくれるように望んでいる人もいる、 思いました。



 判決後も態度を改めない国に疑問を抱きましたが、更に裁判時の国の主張にも疑問 を抱きました。国の主張は法律に明記されているのは「産業間の相互調和と公衆衛生 の向上」であり、このため国、県は一貫して「個々の国民を対象としておらず、規制 権限を行使しなくても国家賠償責任はない」と主張していたそうですが、公衆衛生に 個々の命は入っていないのでしょうか?全体のためならば、個人はどうでもいい、と 言う風に私には聞こえてしまいました。本音はそうかもしれませんが、そんなことを 国に言って欲しくはありませんでした。私は公衆衛生は個人の衛生も、公衆の衛生も 向上させるためにあるものだと思いたいです。



 補償金が絡むようになってから、何かが歪んでしまったような気がします。認める か認めないかの、全か無か、ではなく症状の段階によって補償金を決めていれば、水 俣病の人が水俣病で無いと言われることも、国が巨額の補償金に悩むことも無かった ように思います。町医者の意見が参考程度で、その人が水俣病なのかそうでないかを 判断するのは、行政なのも、科学的根拠にあっていません。その人を診断した人の意 見ではなく、その人に会ったことの無い人が作った判断基準でどうして病名が決めら れるのでしょうか。医師がこの人は水俣病だ、と診断している人がどうして水俣病に ならないのでしょうか。この判断基準は福岡地裁でもおかしいと言われているのに。 巨額の補償金などで国側の人も大変かもしれません。しかし、ずっと同じ態度でいて 裁判に負け続けてきたのだから、そろそろ態度をかえ、新たなことをする必要がある と思います。



 「不信の連鎖」を見て、水俣病の現状や、今も戦い続けている人がいることを知る ことができてよかったと思います。解決したものだと思っていた自分がひどく恥ずか しいです。自分はもっと様々なことを知るべきだと思いました。