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水俣病のビデオを見て
この一本のビデオの中に、様々な立場の、様々な感情が渦巻いていた。登場人物は大きく分けて、国の行政側の人々、水俣病患者側の人々である。水俣病患者と国との裁判の争点は、水俣病患者と思われる患者を、国が水俣病と認めるかどうかである。これが認められない限り、水俣病患者の治療費は全額患者もちなのである。
二十二年間の審議の末、熊本県では国が責任をとるという結論に至ったが、それを関西の患者にも適応しろということで、まだ議論は続いているようだ。
国の認定には三段階あり、一に行政認定、二に司法認定、三に政治決着、四にそれ以外である。上から順に、補償される金額も多くなる。補償される金額が多くなればなる程、認定される基準は厳しくなる、という国の算段である。これは基準の異なる複数の水俣病が存在する、ということである。複数の水俣病が、国の補償の獲得戦の中で、創られてきたのである。患者は、認定基準なんて関係なく苦しんでいるというのに、国は補償金を払うか払わないかという問題に固執している。ここに、そうした水俣病患者の空しさをよく知っている医師があらわれる。
多くの患者をかかえる熊本県の松本医師は、水俣病でありながら、水俣病と認められない患者と長年接してきた。松本医師の父の代から水俣病患者の認定と戦ってきたのである。その父も水俣病に侵され亡くなった。彼は、自分の父の遺体を自ら解剖することによって、水俣病の認定枠を改善しようとした。自ら父の遺体を解剖する、その心中は察するに余りある。その上自体は一向に改善されなかった。私が松本医師なら、この時点で悲観して投げやりな気分になっていたに違いない。しかし松本医師は姿勢を変えることなく今も水俣病患者とむきあっている。松本医師は、感情も露に訴える人々の中でも、一番落ち着いて意見を述べる人であり、かといって投げやりな態度でもなく、温かみのある態度で患者に接せる人柄であった。私は彼に理想の医師像を見た。
松本医師や様々な患者の努力も及ばず、現在二万人の水俣病の申請者中、政治決着二千三百人、政治決着一万人という、患者側にとっては不満の残る認定人数である。
全てのことの発端は昭和三十一年、魚を食べると、メチル水銀中毒症になったことが発覚したことから始まる。すぐに食品衛生法の適応を要請したが、厚生省がこれを認めず、漁獲禁止されることなく、感染被害が拡大したのだ。
何の疑いもなく魚を食べた患者が悪いのだろうか?
メチル水銀を含む魚を市場に出回らせた漁師がわるいのだろうか?
不安の芽に気づきながらも漁獲禁止に踏み込めなかった国が悪いのだろうか?おそらくそうだろう。
しかしここで、私は将来の医師である。その仕事は様々で、もしかしたら私は患者を弁護する側の医師であるかもしれないし、もしかしたら国の認定医の立場にあるかもしれないのだ。そのとき、世間一般で正しいとされる行動に私が従事できているのか、私は自信がない。
ただ松本医師のように、自分の信念に従って行動する医師になりたいと思った。
今回のビデオは、そんな医師としての存在価値までも問われていたように思う。