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『水俣病と医学』
私は今回の講義を通して、水俣病という断片から医療・医学と社会の繋がりを垣間見ることができた。
患者さんと医師との一対一の関係を考えると、社会と繋がりをもった医学とは私自身、将来的に認識の薄い内容でもあった。
熊本の水俣湾沿岸で発生したチッソ水俣工場による有機水銀の流失事件はまさに公害と医学そして行政や司法のつながりと、そうした事件解決の難しさを露呈したものであったように思える。
被害に遭われた患者さんの悲痛な叫びにまったく応えられず、逃避的な環境庁の姿は非常に印象的であった。
生物濃縮を繰り返して人々の食生活に脅威をあたえる有機水銀による症状からも全くその脅威は明白だ。
その中で頗る司法との関連で考えさせられたのは、そうした症状の境界やその保証についてである。
一体全体病気の症状というものに白黒をつけたり、境界というものによってラインを引けるのだろうか?今回のビデオ講義の中に示されていたようにそうした症状を便宜的に区切っていたことはまさしく事務的な行為である以外の何ものでもないと思った。
医師側からの立場で見る患者さんは決して被害者であると考えるべきでないと思ったし、そうした境が存在すること自体が悲劇だと思う。
親子代々で水俣病患者さんを見てこられた松本医院の松本先生が述べられていたが、『医師として実際に水俣病の患者さんに接している訳もなく、そうした知識の乏しい環境庁などの役人がどうしてそうした保証に対して勝手に白黒をつけるのか』という内容には、共感を覚えた。
それは患者さんを精神的・肉体的、経済的、そして司法的に救う為にも医学的診断による裏付けを行うことが何よりも優先させられる事だと思った。
そして環境庁の示していた、被害者の保証云々よりもまずは病気に苦しんでいる人を治療する、そして非を認める、こうした単純な行為がこの場面では失われていたのだとも思った。
人を取り巻く環境は急速に変化を遂げている。
人は生物を摂取して生きている。
こうした状況の中で、人に対して脅威が起こった時に医師としていかに誠実に患者さんと向き合い治療していくかということは周知の通り、それ以上に患者さんのバックグラウンドに潜むあらゆる要素を把握し、元の生活を営むことができるようになることが重要であると確信している。
今回ビデオという形で聴き、感じ、学んだことが今後の医学を学ぶ上での指針になることを確信するし、こうした医学の周りを取り巻く様々な学問も大切であると考える。