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水俣病について    

                     

 今まで私は、水俣病は公害病という認識しかもってなかった。それは小学校や中学校の時に学んだ浅い知識でしかない。そこで医学的知識(そこまで知識はないが・・・)や今の私の見解を述べることにします。今回参考資料として熊本日報新聞の水俣病百科を使わしてもらいました。大変参考になったことをここに敬を表します。

 水俣病とは、魚介類を介して発生するメチル水銀中毒症で、工場排水に含まれたメチル水銀が海や川の魚介類を汚染し、それを食べた人に発症する公害病。これまでに水俣湾を中心に不知火海(八代海)沿岸地域に広く発生した熊本水俣病と新潟県の阿賀野川下流域に発生した新潟水俣病(第二水俣病)の二つが知られている。公害病としての水俣病は、メチル水銀中毒症という医学的な側面と巨大公害事件としての社会的な側面の両面を併せもっている。医学的には、体内に蓄積したメチル水銀によって主に脳の中枢神経系(大脳皮質および小脳皮質)と末梢神経が侵される病気で、多彩な臨床症状を示す症候群である。特に手足や口の周りの感覚障害が特徴で、すべての患者に現れる。このほか、運動失調、聴力障害、視野狭窄、言語障害などの神経症状があり、さらに知能低下などの精神症状もみられる。水俣病には出生後にメチル水銀中毒にかかる後天性水俣病と胎児期に母体内でメチル水銀に侵される胎児性水俣病がある。症状の程度は、非常に重いものから比較的軽いものまで多様な分布を示している。治療法は根本的なものがなく、主に対症療法やリハビリテーションに頼っているのが現状である。医学的にみてもまだ未解明の部分を多く残している疾患である。これまでに認定された患者は、昭和56年(1981)11月末現在で1784人、そのうち死者は478人を数える。このほか、まだ認定待ちの申請者が5000人を超えており、最終的にどれくらいの患者数になるかは現在のところわかっていない。水俣病は、その規模の大きさと被害の深刻さにおいて第二次大戦後最大の公害事件であり、31年五月の公式発見後25年たった現在でもまだ解決のつかない事件である。水俣病はチッソ水俣工場の排水に含まれていたメチル水銀が原因で発生した事件であり、原因者はチッソである。チッソは明治41年(1908)日本窒素肥料(株)として創立、昭和25年新日本窒素肥料(株)として再建され、40年チッソ(株)に社名変更して現在に至る(以下すべて「チッソ」と略記する)。チッソは、長年月にわたり水俣工場の排水を無処理のまま水俣湾などに放出してきたが、メチル水銀を含む排水を工場外に出さないように処理することは技術的にそうむずかしいものではなく、水俣病の発生を防止することは十分可能であった。また公式発見後に、チッソや行政が被害の拡大を食い止める対策を講じることも同様に可能であった。しかし、現実にはこうした防止策が講じられないまま、被害が極限まで拡大し、巨大な公害事件に発展したのが水俣病事件である。したがって、その後の水俣病問題は、基本的には被害発生後の「後始末」の問題になる。長い曲折を経てなお解決に至っていない水俣病認定や患者補償の問題がそうであるし、ようやく開始された水俣湾のヘドロ処理にしても同様である。これらの後始末の問題も、チッソの経営危機やその救済策とも絡んで、まだはっきりしためどが立っているとはいえない。水俣病事件は、巨大公害事件として最初から全国的に注目されたわけではない。新潟の第二水俣病の発見をきっかけに、昭和40年代以降ようやく国民の注目するところとなり、第一次訴訟の提起や自主交渉要求などによって被害者らの運動が開始されるとともに、水俣病事件は初めて政治の舞台に登場し、以後ますます重大な政治的事件としての様相を深めている。同じ時期に、地域社会から孤立した患者・家族とそれを支援する人々により、全国にわたるユニークな水俣病闘争が展開された。

 私の意見としては、被害拡大の前にどうにか防止策を行使できたのではないのかと思う。しかし、表沙汰には絶対できないが人の命を落とす危険性との葛藤ではなかったのかとおもいます。だが結局前者を取ってしまったのが間違いでした。今後は、このような公害病を起こさないようにするために、起こりうる公害に目を背けず勇気を出して直面するべきだと思う。