BACK  ←  Section Top  →  NEXT
・・・・・・・・・・058・・・・・・・・・・

水俣病についての授業をうけて



水俣病についての知識が少なかった私はまず水俣病の発生や、現状について調べることにしました。


第二水俣病というのは 水俣病は水俣地域だけでなく、1964年ごろから新潟県阿賀野川流域でも、昭和電工から排出された有機水銀によって同様の症状を示す患者が発生し、これが第2水俣病、あるいは新潟水俣病と呼ばれているものです。「水俣病」と「新潟水俣病」、三重県四日市市の大気汚染が原因の「四日市ぜん息」、富山県神通川流域でのカドミウム汚染による「イタイイタイ病」とをあわせて「四大公害病」といいます。


 そもそも水俣病の発端は1930年代からチッソ水俣工場がメチル水銀を含む排水を水俣湾に流したことにはじまります。その後、水俣湾では1950年代から貝類が死んだり、魚が浮き上がるなどの異変が生じました。1956年に運動障害などの症状を訴えた患者について、熊本大学の研究グループがチッソ水俣工場の排水が原因と発表、水俣病の患者発生が初めて公表されました。1959年には、水俣病は水俣湾の魚介類に含まれる有機(メチル)水銀による中毒であると、熊本大学を中心とする研究メンバーによって発表されました。高濃度のメチル水銀は毒性が強く、人体の中枢神経や脳細胞に作用し、水俣病患者は手足のしびれ、言語障害、体中がけいれんするなどの症状に苦しめられました。しかし、他の原因を主張する研究者もおり、水俣病の原因は公式にはなかなか確定されなかったのです。


1968年になって政府は、水俣病はチッソ水俣工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀化合物が原因であると公式見解を発表し、水俣病が公害病として正式認定されました。水俣病患者の一部は翌年、チッソに損害賠償を請求する第1次民事訴訟を起こした。1973年に患者側勝訴の判決があり、その後、1980年にはチッソだけでなく、国と熊本県にも国家賠償を求めた第3次民事訴訟が患者側から提訴され、1993年に行政の責任が熊本地方裁判所によって認められました。政府も水俣病患者の枠を広げるなどの和解方針を打ち出したこともあり、1996年に水俣病患者とチッソ、政府解決案による和解が成立しました。また、関西に移住した水俣病の未認定患者45人が国と熊本県に賠償を求めた「水俣病関西訴訟上告審」で、国や県の行政責任を認める判決が、2004年10月15日に最高裁で下された。発生から半世紀で、ようやく一応の決着をみたことになったのです。このように、水俣病はチッソの企業城下町であったことから、水俣病患者とチッソが対立して地域社会を分裂させました。以上のことより私は、和解後も地域社会再生のための努力が続けられるべきだと思いました。水俣病の発生により壊れてしまった人と人との関係、自然と人との関係をもう一度つなぎ直して再生する必要があります。では、水俣の再生に向けて、どんな努力が続けられているのかについて調べてみました。
 

 チッソ水俣工場の排水中に含まれていた水銀は100トンにも及び、水俣湾底にヘドロとなって堆積しました。1997年に熊本県は水銀ヘドロ除去事業に着手し、浚渫された水銀ヘドロは埋め立て処分され、水俣湾は58ヘクタールの埋立地になった。埋立地は「環境と健康」をテーマとした公園として生まれ変わりました。


漁業に関しては、1974年から水銀汚染魚の拡散防止のため水俣湾に全長4400メートルの仕切り網が設置されていたが、魚介類の水銀濃度が低下したことで、1995年から仕切り網が順次撤去され、1997年に魚介類の安全宣言とともに仕切り網が撤去されました。また、水俣では、新たな水俣病の発生を防ぎ、治療法を研究するため、1978年に「国立水俣病研究センター」が設立されました。当初は水俣病の具体的な対策を行っていたが、その後、公害問題の解決は一地域の問題でなく、広く環境問題全般と関係づける必要性が生まれたことから、同センターを「国立水俣病総合研究センター」に改組、世界に向けて水俣病の教訓を発信し、環境と人との健康に係わる分野の研究を行っています。水俣市は、水俣病の経験を活かし、「環境・健康・福祉を大切にする産業文化都市」を目指し、市民と一体となってまちづくりを進めています。水俣市では現在も患者・市民・企業・行政が一体となって、環境モデル都市づくり宣言を行い、さまざまな活動に取り組んでいるそうです。ぜひ頑張ってもらいたいと思います。そして私も環境問題について日頃から関心を持って少しでも環境にやさしいことはしていきたいと思いました。