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      「不信の連鎖」〜水俣病は終わらない〜 を見ての感想

                     

 先日、「不信の連鎖」〜水俣病は終わらない〜を見て義務教育の中で教わった水俣病について改めて考えることになった。と言うのも私の中では既に終わった事柄、歴史の一つの出来事としてしか捉えておらず、もう終わったことばかりだと思っていた。しかし、まだ終わっていないことに気づかされた。関西訴訟を除く裁判は一人当たり二百六十万円の一時金支給などの政府の解決策を受け入れて和解した。その結果、行政責任を問うのは関西訴訟だけとなったが、2004年の最高裁判決でも国・県の責任を認めた。しかし、患者への補償問題は終わっておらず、患者の生活は何も変わっていなかった。

 ビデオを見て率直に国の往生際の悪さが見られた。被害者の質問に役人が答えられず、困惑している様子や表情に焦りと冷や汗がにじみ出ている様子が印象的だった。特に納得のいく説明ができない状況で、答えている役人も国が悪いのを認めながら何とか逃げ道を探そうとしている姿はビデオを見ていた私も歯痒い思いになった。確かに国は人的にも費用的にも法廷論争に耐えうる力を持っているが、患者側は費用の面でも、体力の面でもさらには高齢化によっても非常に弱い立場に置かれてきた。圧倒的な力の差がある現実を無視して、対等な当事者として患者を国と対峙させるところに私はそこに正義があるのかと理不尽に思った。

 一方、水俣病の関西訴訟と比較して、ハンセン病国賠訴訟の控訴断念とは大きな違いがあるように思えた。ハンセン病の直接の加害者は国であるのに対し、水俣病はチッソ。国がメチル水銀を流したのではなく、判決で問われているのは行政責任だけだと他人事のように言っているように思えた。しかし、ハンセン病と同様に水俣病の症状の程度は非常に重いものから比較的軽いものまで多様に分布を示している。そして、治療法は根本的なものがなく、主にリハビリに頼っているのが現状である。このことからも国がしている三審制や消耗戦とも言うべき行動は時間を利用した殺人行為とも捉えることができる

 小泉首相は郵政民営化に力を注いでいるが、水俣病認定や患者補償の問題の解決のほうが先にすべきだと思った。戦後から必死で復興しようとする当時の時代背景・社会環境、ものの考えから公害に目を向けることができなかったと言うやむをえない面もあるが、現時点の問題から目を背けて言い訳ではない。もっと積極的に対応しなければならないはずだ。かつて、国は自らの運命を誤ったために、領土を失い、産業を破滅させ、国民生活を危機に瀕せしめた歴史がある。水俣病も罪もない国民の命や生活、将来まで奪ったと言う点で「負の歴史」として共通だ。この問題は、国民の健康や生命が危機にあるとき、行政は何をすべきか、行政は何のためにあるか、誰のためにあるのかと言う行政への問いかけだと思う。国や企業があっての人じゃなく、人があっての国や企業だという事を忘れてはいけないと強く思った。