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 2006年は水俣病の公式確認から50年という節目の年です。水俣病は新日本窒素肥料水俣工場が行ったアセトアルデヒド生産時の触媒による副産物であるメチル水銀を含んだ廃液が汚染処理を十分行わないまま海に流され生体濃縮されたことによる水銀中毒です。四大公害病といわれ、戦後の日本経済発展の裏面として知られています。水俣病は、魚介類に蓄積された有機水銀を長期、大量に経口摂取することによって起こる神経系の疾患で、後天性のものと先天性(胎児性)のものがあります。後天性水俣病の主要症状は、求心性視野狭窄、運動失調(言語障害、歩行障害等を含む。)難聴及び知覚障害です。また、胎児性水俣病は、知能発育障害、言語発育障害、咀嚼嚥下障害、運動機能障害、流涎等の脳性小児マヒ様の症状を呈します。原因がはっきりするまでは「水俣奇病」などと呼ばれ、伝染病と思われたり、精神病棟に入れられたりしました。水俣病患者と被害地域住民は差別的な待遇を受けたこともあったといいます。彼らは日本の経済政策の犠牲者でした。水俣病の50年を振り返ることは日本の経済政策、環境政策を振り返ることでもあります。

 水俣病に関する国家賠償訴訟は、水俣湾内で獲れる有毒化した魚を流通させないために漁獲を禁止したくても適当な法律がない、チッソの水俣工場から流される有毒な排水を止める法律がない、規制する法律がない以上、被害が拡大するのをただ見守るしかないのか、といった「法の欠如」という問題を提起しました。まず、食品衛生法はO-157のような食中毒事件が各地で発生した場合に被害の拡大を防止するために適用されますが、公害を取り締まるための法律ではないので水俣湾の魚が有毒化し、それを食べた人間が発症する可能性が高まっても、食品衛生法を適用することはできないのかという問題が浮上したのです。また、工場排水が原因となって水俣病が発生するということは、被害がどんどん拡大してからはじめて分かったことで、チッソはそれを予見できなかったから過失責任は問えないので無罪放免にしていいのかという問題でした。急性劇症型といわれる非常に重篤な患者がたくさん発生した時期、チッソは年々生産設備を拡張して膨大な利益を上げていました。チッソのいう水俣病騒動が見舞金契約の締結をもって収束した直後の19601月に、当時の工場長が年頭の挨拶で二度にわたる漁民騒動にもかかわらず予定通り生産を拡大し、ここ数年にない大きな利益を上げることができたことを喜んでいる、と語っています。我々のモラル感覚からすれば、これはとうてい容認できないことです。

 チッソの水俣工場は、かなり規模の大きな有機合成化学工場で非常に危険な原料やプロセスを使いながら化学製品を製造していた工場です。しかも周辺には住宅が密集している環境で危険な製造工程を使って操業していました。工場排水によって付近住民に危害を加えないことは絶対必要なことで、チッソには、そうすべき高度な注意義務が課せられているはずでした。チッソが水俣工場で長年やってきたことをみますと、一つとして安全確保義務を果たしてはいません。化学工場の排水が危険であることは常識であると思いますが、チッソはその排水を分析する能力は十分あったにもかかわらずやろうとしなかったのです。   

 19574月より開始したネコ実験により、水俣湾の魚が非常に危険な状態にあり、これを食べれば、ネコ同様ヒトも水俣病になる可能性が高いということが立証されました。そこで、当時、熊本県は、水俣湾の魚は有毒化しているので、これを食べたり、採ったりしてはならないということを知事の名で告示し、住民に周知徹底しようと考えました。ところが、食品衛生法は国の法律なので、告示を出す前に一度厚生省の見解を聞いてみる必要がありました。すると、当時の厚生省公衆衛生局長の回答は「水俣湾の魚介類のすべてが有毒化しているという明らかな根拠が認められないので、水俣湾で捕獲された魚介類のすべてに対して食品衛生法第四条第二号を適用することはできないものと考える」というものでした。そこで県は、保健所を通しての健康指導に切り換えたのですが、その程度の防止策ではきわめて不十分でした。やがて水俣近海産の魚介類の市場価値は失われ、水俣の漁民たちは貧困に陥るとともに毒が入っていると分かっている魚介類を食べなければ生活ができなくなったのです。食品衛生法は適用できないという考え方は、果たして妥当だったのかという問題を水俣病国家賠償訴訟は提起しているのです。         

 チッソの製造工程から出てきた毒物が海中の食物連鎖を媒介にしながら、最終的にネコやヒトに水俣病を発生させるというメカニズムによる水俣病被害の拡大をくい止めるには、工場から原因物質である毒物を出さないことが一番ですが、原因の特定に至っていなかったし、チッソは生産を拡大していた時期ですから、簡単には排水停止に応じる気配はありませんでした。もちろん、排水停止には通産省も反対でした。

 メチル水銀曝露をなくしさえすればよいというのは、誰でも理解できる理屈ですが、当時は不思議なことに、こういう単純なことが分かっていないというか、あるいは分かろうとしなかったようです。当時はなぜか水俣病を引き起こす毒物は何かということに議論が集中し、解明しないことには対策は立てられないという考え方が支配的でした。大半の人は水俣病の原因はメチル水銀しかないと固定的に考えているけれど、水俣湾の有毒化した魚そのものが原因なんだという考え方も十分成り立つわけで、汚染魚さえ食べなければ人間は毒物にさらされることはないし、発症の危険性はないというところに対策の重点を置くべきでした。

 水俣湾は閉じられた湾ではなく、魚がたえず不知火海との間を行き来している非常に魚の豊富なところなので、厚生省のいう通りに、水俣湾に生息する全ての魚介類を次々に有毒化しているかどうか調べて、湾内の魚全てが有毒化しているという明らかな証拠を挙げることは不可能でした。厚生省は食品衛生法を適用したくなかったので意図的に不可能を要求していたのでしょう。

 1959年、原因が「有機水銀」と特定された後も、加害企業であるチッソは廃水を流し続け、国も効果的な手段をとりませんでした。チッソ水俣工場が戦前からの日本有数の財閥のひとつで引退した工場長が市長を務め、議員の多くも工場関係者で、市の財政がチッソ水俣工場に支えられていたことも水俣病に対する行政の対応を遅らせてしまう原因の一つだったのかもしれません。1968年になってようやく政府は発病と工場廃水の因果関係を認めましたが、この遅延も被害の拡大を助長しました。こうした被害拡大の中で、1977年に国は「いくつかの症状の組み合わせが無ければ水俣病と認めない」という厳しい認定基準を策定し、患者を切り捨ててきました。この認定基準は病理的ではなく政治的であるとの批判があり、認定患者には政府およびチッソから医療費等が支給されますが、政府による認定を受けられなかった患者の救済問題が生じています。国には認定基準を見直し、特別立法も視野に入れた抜本的な対策が求められています。1995年に政府は「水俣病問題の最終的かつ全面的解決」と称して一つの解決策を未認定患者に提示しました。水俣病の被害者で結成した全国連(当時)は、「すべての患者に生きているうちの救済を」という立場から、96年に国との和解を選択しました。その結果、11000人以上の患者が救済されました。そのうちの2500人以上がすでに亡くなっている現実を考えれば、和解は正しい選択だったといえるでしょう。こうして政治決着が実現したのですが、認定制度は本人申請主義をとっており、患者本人が県知事に申請しない限り認定されないという仕組みです。色々な事情で認定申請したくない、あるいはしようと思ってもできないという人達がおり、相当重症の患者であっても未認定のまま亡くなった人が少なくないので、水俣病患者の数は未だに確定していないのが現実です。「それでもなお、手の届かない被害者がいる」ことと、全国連との和解はしたが、「水俣病認定基準を一貫して変えなかった国の責任」は今、再び鮮明になっています。少なく見積もっても12000人以上の被害者が出るのは必然の道のりであったのか、色々手を尽した末に、結果としてこれだけの被害者を出さざるを得なかったのかというと、それは決してそうではなく、被害をくい止めるべき人間(具体的にはチッソであり、行政)が被害の拡大をくい止めるために、その時々において有効な対策をとってこなかったことがこういった結果を招いてしまいました。行政は健康被害をくい止めるために、種々の規制権限や、行政指導を行使すべき義務に違反して何もしなかったのです。水俣病国家賠償訴訟において問われたことは、国や行政の責任、即ち被害の拡大をくい止めるためになすべきことを何もせずに見過ごした責任なのです。認定患者数および申請者数は、最近急激に増加しているようで、その背景には権利意識の目覚めと世論の高まりにつれて認定と補償を求めて表面に出てきたという社会的要因の他に、水俣病の病像が従来の典型的かつ重い症状のものから研究の積み重ねによって不全型の軽い症状のものも含むというように変わってきたこと、あるいは症状が明確に現れなかった者の中から時間の経過とともに顕在化してくる者があること等が挙げられます。

 環境法の体系的整備という点では、日本は今や世界で最も進んだ国の一つですが、それは1970年以降のことです。水質二法ができるまでは工場排水を直接規制する法律はありませんでした。

 日本は法治国家ですから、法律の根拠もないのに国民の権利や自由をむやみに制限することはできません。これは近代国家の大原則ですが、政府はこれを持ち出して、当時の行政が被害の拡大をくい止めることができなかったのは、やむを得なかったとしていますが、本当にそうなのでしょうか。我々は高い税金を払い、何のために国家を作っているのでしょう。犯罪を防止し治安を維持してもらうため、国民の生命と健康を守り、福祉を増進するためではないでしょうか。その国家が立法を怠り、今適当な法律がないからといって国民の生命と健康を守ることができないというのでは、国家が本来の任務を果たしているとはいえないと思います。

 熊本県は1980年から、10年位かけて水俣湾に溜まっている水銀を含んだヘドロをとる工事を行い、現在では漁業も再開されています。魚介類の微量汚染をはじめ、水銀汚染は地球規模で深刻になっています。私達は水俣病の悲劇を教訓として謙虚に学び、世界の国々に対し、わが国の経験や技術を生かして積極的な協力を行うなど、国際的な貢献をするべきだと思います。

 

 <年表>

1932 チッソ水俣工場の有機水銀を含む廃水の水俣湾へのたれ流し開始

1942 水俣病と疑われる患者がでる

1954 このころたくさんの猫が狂い死にする

1956 水俣病の患者発生が公表される

1959年7月 熊本大学が水俣病の原因を特定

10月 細川博士がネコの発病実験を行う

11月 不知火海沿岸漁民が工場の操業停止を求めて水俣工場に乱入

 1963 熊本大学が水俣病の原因はチッソ水俣工場の廃水中の水銀と発表

1965 新潟水俣病の発生が確認される

1967 新潟水俣病患者が訴訟をおこす

1968 4月、新潟大学が新潟水俣病の原因は昭和電工鹿瀬工場の廃液と発表

5月、チッソが水銀のたれ流しを中止

9月、熊本水俣病と新潟水俣病が公害病として認定される

 1969 熊本水俣病患者が訴訟を起こす

1971 新潟水俣病裁判で患者側が勝訴

1973 熊本水俣病裁判で患者側が勝訴

1980 熊本水俣病の未確認患者が裁判を起こす

1996 熊本水俣病の未確認患者とチッソが和解