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水俣病について
l 水俣病のまとめ
・ 水俣病
;1956年頃熊本県水俣市で発生した四大公害病の一つ。
・臨床症状;知覚障害・運動障害・聴力障害・視野狭窄・言語障害 など。
患者によっていくつかの症状が組み合わされる。
年齢病歴によって症状が大きく異なる。
患者に共通して末梢神経の障害や大脳小脳の皮質障害が見られる。
母親が水俣病の場合、胎児が水俣病になり、水俣病に罹患して重い障害を持って生まれることもある(胎児性水俣病)。
・原因物質;有機水銀(メチル水銀)
・発生原因;1932年日窒水俣工場(現在、チッソ水俣工場)がアセトアルデヒドの生産を開始し、1941年まで無処理のメチル水銀を水俣湾に排出した。メチル水銀が水俣湾内の魚介類で濃縮され、沿岸漁民がその魚介類を食べて有機水銀中毒になった。
・経緯 ;
1955年頃より猫の不審死が多数見られるようになった。1956年にも同様の症例の発生が確認された。
1956年5月1日、新日本窒素肥料水俣工場付属病院長の細川一が「原因不明の中枢神経疾患の発生」を水俣保健所に報告した。この日が水俣病公式発見の日とされる。当初の患者の多くが漁師の家庭から出たため、当初新日本窒素肥料などにより風土病との宣伝がなされた。それらにより「水俣奇病」などと呼ばれ、水俣病患者と水俣出身者への差別が起こった。その事が現在も差別や風評被害につながっている。また非認定患者の潜伏や移住にいたる場合もあり、認定をめぐる訴訟にも影響を与えた。水俣近海産の魚貝類の市場価値は失われ、水俣の漁民たちは貧困に陥るとともに食糧を魚介類によらざるを得なかった。このため、被害が拡大していくことになった。水俣市ではチッソに勤務する労働者も多いことから、漁民たちへの中傷やチッソに同情的見方もあった。
1959年、熊本大学医学部水俣病研究班が原因はチッソ工場から排出される有機水銀中毒と発表した。しかし、チッソはこれを否定し、かなり後期になるまで会社、行政ともに対策を怠った。政府が発病と工場排水の因果関係を認めたのは1968年である。この遅延により被害が拡大した。水俣病と認定された患者には政府およびチッソから医療費等が支給されたが、政府による認定を受けられなかった患者の救済問題が生じている。水俣病であるとの認定が病理的でなく政治的であるとの批判がある。
・患者数 ;
○1医学的に水俣病と認定された患者・・・2262人(うち1246人はすでに死亡)
○2まだ認定されていない患者・・・・・・10353人
○1○2をあわせた12615人が公式に認められた水俣病患者数。
潜在患者を含めた総患者数はその1万倍をはるかに越える。
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感想
今まで水俣病といえば、四大公害病の一つで社会の教科書に出てくるというぐらいの印象でしかなかった。今回勉強して、水俣病が政治、医学、産業などあらゆる分野の問題を抱える非常に複雑な病気であることがわかった。
水俣病の問題点について色々考えてみた。私はまず第一に国、行政に大きな責任があると思う。このような公害病が日本ではじめて起こったからという理由もあるかもしれないが、当時水俣で起こっている中枢神経疾患は魚介類が原因であるということがわかっていながら食品衛生法の適応をなかなかしなかった。また後に原因がチッソ工場から排出される有機水銀中毒の可能性が高いと分かってからもそれを否定し排出を止めなかった。これらのことは水俣病の被害拡大に大きく関わったと考えら
れる。
次に、水俣病がこんなにも長い間もめている理由として、「患者救済」の問題がある。患者が救済されるには水俣病であると認定されなければならない。水俣病の判断は、医学者と行政が連結したことにより行政に独占され、感覚障害だけでなく複数の症状の組合せが必要であるという間違った判断条件がつくられてしまった。これにより、有機水銀中毒でありながら水俣病と認定されず、救済を受けられない患者が急増した。
私は、医学者という専門家が行政と連結してしまったことが大きな問題だったと思う。なぜなら診断基準の設定ばかりが論争され水俣病という疾患自体の解明が遅れてしまったからだ。同じ疾患でもあらわれる症状が人によって違うことなど、当たり前のことであるのに細かい診断基準が設定された。行政側の医師は本来の医師のあるべき姿ではないと私は思う。やはり医師は疾患の解明にもっとエネルギーを注ぐべきであったと思う。
水俣病は多くの問題を残してしっまっているようだが、多くのことを学ばせてくれたと思う。例えば、有機水銀が脳血液関門を通るということがわかったことは、当時の医学の常識を根本から覆すような大発見であったようだ。同時に不顕性の障害に目を向けることの重大さにも気付かせてくれた。
水俣病はまだまだ終わっていない。これからもまだ問題が出てくるかもしれな
い。
あるいは新たに公害が発生するかもしれない。そのようなときのために私達は各々の役割を再確認し同じ過ちを起こさないようにするべきである。