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NHKスペシャル〜水俣病は終わらない〜を見て


私は今まで、水俣病に関してこのように長い間審議が続けられていたことを、あまり詳しく知りませんでした。

となると本来、今回このビデオを見たというだけでは、あまり確信に満ちた意見を言うべきではないと思います。

20年以上のもの審議が続けられている深刻な問題に対して、安易な考えを意見として述べるのは失礼にあたると思うのです。

そういうわけで、このレポートではあくまで、現在の私個人の率直な感想を書いてみようと思います。

基本的に私の意識は、全体像としては中立かもしれません。

被害者である患者側の言い分が最もであるとは思いつつも、そうかといって、現状況で誰も彼もを水俣病に認定するのは無理があると思ったからです。

私がまず最初に強く感じたのは、やはり海が汚染されるというのは、取り返しのつかないことだったのだということです。

しかもその汚染されたままの海で漁獲を続けた以上、水俣病と認定されてはいなくても、何万人もの患者がいることは疑いようのない事実であると思われます。

しかしそうなると。

その全員を仮に水俣病と行政認定したとすると、国は一体その補償に何千億を負担しなければならないのでしょうか。

本当に規模の大き過ぎる人災で、それをまともに償うことは果たして可能なのかどうか、知識不足の私にはよくわかりません。

でもそれが困難であるからこそ、認定審査も厳しくされているのではないでしょうか。

少なくとも私が審査をする側であったのならば、どうしても慎重になってしまうことは避けられないと思います。

私個人の感情としては、被害者の方々が本当に気の毒で仕方が無く、出来る限りの補償はされ得るべきだと思っても、一人一人全てにそれをするには事態が大き過ぎるのではないでしょうか。

つくづく、公害とは恐ろしいものだと思います。

これらの思いから、水俣病であるという判断条件の問題の他にも私は、認定された後の補償内容に問題があるのではないかと思いました。

水俣病であるかそうでないか完全に白黒を分け、片方のみに統一された補償をする制度がおかしいのではないかと思うのです。

水俣病であったにしても、症状の進行度は個人によって違うはずです。

それを一緒くたに、全く同一の補償内容にするという単純なシステムにしてしまったことが、この事態を招いた原因の1つではないでしょうか。

もしも症状の進行度によって補償の内容を細かく分け、加害者側にかかる負担を全か無の法則のように極端なものにしないのならば、より沢山の人間を水俣病と認定することが出来るのではないか。

そう私は思いました。

政治決着では水俣病と認定されず、その後主張することも許されなくなることを何より憤り、受け入れずに訴訟を続ける人々とも、少しは歩み寄れる方法だったのではないかと思います。

問題の一つとされている判断基準自体の確信のないまま、司法認定や行政認定を不自然に分けるよりも、こちらの方がずっと、科学的にも筋が通っているような気がします。



以上が、私がこの件について正直に感じたことでした。

このような点についてはビデオでもほとんど触れられていなかったので、これにもやはり問題点があって、過去に似たような案は出されても却下されたか、またはこういった案自体出されなかったのか、そういうことであるならその問題点はどういうものなのか。

自分の認識の浅さを知るためにも、知ってみたいと思っています。その辺りの事をいつか、機会があれば調べてみたいです。