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水俣病
水俣病は、豊かな暮らしをもたらすはずの産業の活動から副次的に作られた汚染物質が、環境を経由して私たちの身体をむしばむという、公害の典型と言うべきできごとだった。この病気が公式に発見されたのは昭和31年。
@病気の原因は、メチル水銀。
水俣病を引き起こしたメチル水銀は、有機水銀の一種。工場の生産過程で使われた無機水銀(蛍光灯、乾電池、体温計など身近に使われている)がメチル水銀に変わり、これが海や川を汚染した。海や川の汚染は、魚介類のメチル水銀汚染を引き起こした。汚染された魚介類を大量に摂取した住民やそうした母親の胎児がメチル水銀中毒、メチル水銀による神経系の傷害を受けた。自然界に存在する水銀化合物のうちメチル水銀のほとんどは消化管(小腸)から吸収される。小腸→門脈→肝臓→全身へと運ばれて蓄積し、神経系の特定部位に強い傷害を起こす。その結果それぞれの部位が持つ役割に応じた障害が起こる。これが以下のような症状となり、様々な組み合わせで現れるのが水俣病の特徴。
@)小脳・・・運動、バランス
わけもなく転ぶ。まっすぐ歩けない。ボタンをかけたり、衣服の着脱など日常の動作が思うようにできない。(運動失調)
ことばが不明瞭。(講音障害)
A)後頭葉・・・視覚
まっすぐ見たときに周囲が見えにくい。(視野狭窄)
B)中心後回・・・感覚
触れているのはわかるが手のひらに書かれた数字がわからない。さわった物の形や大きさがわからない。ざらざらとすべすべの区別がわからない。(感覚障害)
C)中心前回・・・運動
力が入りにくい。筋肉が痙攣を起こしやすい。(運動障害)
D)横側頭回・・・聴覚
音の識別ができない。相手の言うことが聞き取れない。(聴覚障害)
E)感覚神経
じんじんするしびれ。さわられても感じにくい。熱いものや冷たいものにさわっても感じにくい。(感覚障害)
水俣病患者の脳では萎縮がみられる。視野の中枢(鳥距野)、聴力の中枢(横側頭回)など
は、水俣病患者に共通してみられる障害部位である。また、見た目にはわからなくても、頭痛や疲れやすい、においや味がわかりにくい、物忘れがひどいなどの症状で、日常の暮らしに慢性型の患者もいる。
A水俣病が起こった社会的背景
水俣病の発生は、日本が高度経済成長の時期にあった頃のできごとで、その当時の社会状況にも公害発生の要因があったと一般的には考えられている。
水俣病の原因企業はチッソで、高度経済成長のさなかにあった日本を支え、発展させる原動力の役目を担っていた化学工業分野の企業である。なかでもチッソは高い開発力を持ち、独自の技術で次々と生産設備を更新して製品の増産につとめた。チッソの成長に歩調を合わせるように水俣の町も急速に発展を遂げた。そして、工業と従業員の納める税額が水俣市の税収の50%を超えるなどしたため、チッソは地域の経済や行政に大きな力を持つようになり、水俣はいわゆる企業城下町へと変貌した。こうして地域社会の支持を受け、安い労働力、豊富な用水、自前の発電力そして天草の石灰岩や石炭など手近にある原材料を活用し、また廃棄物や廃水の処理についても優遇されていたので、チッソは増産を重ねることができた。一方で労働環境や自然環境への配慮は後回しにされていた。
B患者の補償
1973年(昭和48年)3月の水俣病裁判で患者勝利の判決があり、同年7月患者とチッソの間に補償協定が結ばれた。この協定によって、認定患者に対しチッソから慰謝料として1600〜1800万円の一時金が支払われている。また、チッソが積み立てた基金の利子で、通院のための交通費などが支払われている。熊本・鹿児島両県は水俣病総合対策医療事業により、申請中でない人で四肢末梢優位の感覚障害がある、ある要件に該当する人に、医療費の自己負担分と療養手当(月額約2万円程度:2000年11月現在)を支払っている。1995年(平成7年)の政府解決策により、医療事業の対象者及びそれと同等と見なされた死亡者は、今後補償を巡る紛争を起こさないことを条件に、1996年(平成8年)チッソと協定を結び、一時金260万円を受け取った。
C患者が求めたもの
チッソや行政に対して、患者を放置した責任を認め、人間として心から謝罪せよということだった。被害の実態を明らかにし、速やかに救済することを要求してきた。また地域社会から孤立させられたときに強く訴えたのは、患者も同じ市民、同じ人間であるということだった。今日、それぞれの水俣病患者が、自分の病気と何とか折り合いをつけながら暮らしている。
D原因究明・対策の歴史
熊本大学に作られた「水俣病医学研究班」を中心として、その後、疫学調査を含む精力的な研究が開始され、1956年(昭和31年)11月には、〜伝染性の疑いはきわめて薄くなり、むしろある種の貴金属による中毒と考えられ、人体には主に現地の魚介類により侵入する〜と発表されるにいたった。その後、病理学者によりハンター・ラッセルのメチル水銀中毒に酷似していることが報告され、1959年(昭和34年)の11月には食品衛生調査会が〜水俣病は現地の魚介類を摂取することによって引き起こされる神経系疾患で、魚介類を汚染している毒物としては、水銀がきわめて注目される〜と有機水銀説を厚生大臣に申請するにいたった。ところが原因が明らかになり水俣病対策が一気に進むということにはまったくならななかった。チッソ水俣工場から反論がなされ、また海中爆弾腐食説やアミン中毒説などが出されたためであるが、最も大きな原因は工場側が無機水銀しか排出していないと主張し、かつ工場内での調査が一切許可されなかったことに起因する。無機水銀の経口摂取では腎障害は強いが、神経障害を作ることはできないからである。原因物質を排出する工程が閉鎖されたのは、1968年(昭和43年)の5月になって、ようやくのことである。
感想
「不信の連鎖〜水俣病は終わらない〜」を見て、そのタイトル通りの実情が見えてきた。国や県は不信(信義を守らないこと、いつわりのあること)に不信を重ね続けてきた。そのことが被害住民の、国や県に対する不信(信用しないこと)を募らせ、不信が不信を生む結果となったように思う。
私はまず一国民としての意見を述べたい。水俣病発生後の行政の対策の遅れが、患者数の増加に直接つながったと思う。もし行政が、国民の安全を第一に考えた適切な処置をしていれば何千人という規模の患者を出さずに済んだかもしれない。あれだけの明らかな被害が出ていながら、何もしなかった行政には大きな責任があるだろう。なぜなら、行政以外のどこにも国民を動かすほどの対策を取る権限を与えられていないからだ。にもかかわらず、環境省はその責任を否定し続け、30年という長い時間が過ぎてしまった。謝罪のことばを聞くことのないままに命を落とした水俣病患者もいたことを考えると、彼らが受けた身体的、精神的苦痛ははかりしれない。患者たちは被害者なのに、水俣の発展を脅かす存在として見られたり、水俣病認定に関して補償金にまつわる差別やいやがらせが生まれたりした。たとえば私が、国民を守る義務のある国や県に保護してもらえなかったとき、私は何を考えるだろうか。怒り、それを通り越して絶望かもしれない。私個人の考えでは、この問題は補償金だとか政府解決策の一時金など、お金で解決できるものでは決してない。障害により仕事に就けない場合のことなどを考えると補償金は当然の処置と言えるが、それによって当事者の納得がいくほど簡単に心の整理はつけられないことと思う。それなのに政府解決策という、医療事業の対象者及びそれと同等と見なされた死亡者は、今後補償を巡る紛争を起こさないことを条件に、チッソと協定を結び、一時金260万円を受け取るという、誠意のない処置には正直悲しさを感じる。しかし、それでも近年「対立からは何も生まれない」ということに気付いた行政・市民・被害者が対話や催しを積み重ねながら関係の再生に向かって行動している面もあるという。こうした被害者の苦心の努力からひとつ言えることは、同じ過ちを繰り返してはならないということだ。物質的な豊かさを求め、自然を壊していったときに犠牲になった人々のことを忘れず、人間の生活の営みが自然に及ぼす影響、そのしっぺ返しは人間の生活に影響を及ぼす結果となることを知り、この問題を考え続けていくことが求められていると思う。
次に学者たちの視点から、この問題を考えたい。水俣病が発生したとき、研究者や医師は何をすべきであったか。被害が拡大した最も大きな原因は、水俣病の公的発見からの対策の遅れにあると言えるだろう。信じがたいことだが、水俣病の公式届け出から実に13年を経て後、やっと対策がとられたようなものである。厚生省によって、水俣病が生じた原因はチッソから排出されるメチル水銀化合物により汚染された魚介類を摂取することだという見解が出された。これが1968年(昭和43年)9月のことだが、チッソ工場でメチル水銀排出をもたらすアセトアルデヒド工程が閉鎖されたのは同年の5月であった。この十数年間、有機水銀による環境汚染は進み、周辺住民は危険に身をさらされていたのである。そもそも、チッソ水俣工場附属病院細川院長が、病因の実験的解明のためにネコに工場廃液を飲ませ、水俣病を作ることに成功していた時点で、工場廃液の危険性は明らかであったはずだ。同じような症状を示す患者がいることが判明していたわけだから、住民の健康を考え、すぐにでも疑われるものはやめるべきだった。ここで、学者たちの役目は原因の究明から、迅速で総合的な対策を立てることである。この公害事件において、特に迅速に対策を立てることができなかったことの理由には、経済優先の社会的背景がみられる。しかし、それに屈するような弱い訴えであってはならないと思う。化学的に解明した事象を、包み隠さず、強く訴える必要があると考える。医師である科学者として、人々の健康を考えるとともに、疾病の発生原因についての知識を集め、予防することができたら、それは誰しもの喜びとなると思う。
この水俣病についてのレポートを通して、行政、裁判、医療現場、公害における医師の立場、人々の健康、予防についてなど多くのことを知り、それについて考えた。これまでは医療は医療として、というように個別に考えることしかなかったと思う。その点、今回はさまざまなことを総括的に考えさせられた。また、私の中の大きな変化として、予防・防止という観点から医療を見るようにもなった点がある。水俣病の場合、根本的な治療が望めない。そのため、病気を未然に防ぐことの重要性を感じた。
まだ終わっていない水俣病の行方に注目していきたい。