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 私はビデオを観て印象に残ったことがあります。それは医師が「水俣病」と診断して水俣病患者と認められるのではなく、行政が水俣病患者だと認めると言うことです。

 私は川崎医科大学に入学して、最近次第に「病気」「病名」が具体的に授業に出てくるようになりました。医学を学び始めてまだ3年目で、まだまだ学ばなければいけない事はたくさんありますが、医師ではなく行政が病気を決定する病気は、水俣病以外ではほとんどないのではないでしょうか。そもそも、「あなたは○○という病気です」と病気を決定する決定権は医師が持っているもので、医師は「医師法に基づき傷病の診察・治療を職業とする人」とされています。(大辞林第二版より引用) しかし現実では、医師が水俣病だと診断したにも関わらず、行政によって水俣病患者だと認められていないという事態になっています。私はビデオを観た事によって、この矛盾した現実を改めて突きつけられたように感じました。

 改めて突きつけられたと感じたのは、水俣病という病気をこのビデオを見る前から知っていたからです。中学生だったころ、公害問題として水俣病を扱ったことがあったので常識レベルの範囲内で知っていましたし、水俣病患者認定問題について訴訟が起こっていることも知っていました。けれども、医師が「水俣病患者」と診断しているにも関わらず行政は「水俣病患者」だと認めない。この現実問題を私は深く認識できていませんでした。

 なぜこのようなある意味矛盾した事態になったのかを考えると、水俣病が公害によって引き起こされた病気であることか関係しているのだと思います。公害は自然や生活環境が破壊されることによって不特定多数の住民などが被害にあってしまいます。水俣病の場合、様々な原因で被害の拡大を防ぐことができず、被害者は増加していきました。

 熊本県水俣湾一帯では1950年代から猫が狂い死にするなどの異変がみられましたが、口が聞けない・歩くことができない・食事もできないなどの重症な症状を訴えて、複数の患者が入院するに至り、病院長が水俣保健所に「原因不明の神経障害を呈する患者が多く発生している」と報告しました。この報告日である1956年5月1日が、水俣病の公式確認日とされています。公式確認当時は病気の原因がわからず、奇病や伝染病の疑いもあり、様々な研究グループが原因究明に力を注ぎました。すぐに当初言われた伝染病説は否定され、原因は水俣産の魚介類にあることが明らかになりました。けれども、魚介類に含まれる具体的な原因物質を解明するには多くの時間がかかり、被害は拡大していきました。被害が拡大した要因として、原因がわからなかったので有効な治療法がわからないことや、行政が適切で具体的な対策(例えば、漁業の禁止や水俣産の海産物の売買禁止など)を早急に行えなかったなどがあげられると思います。もちろん、漁業によって生計を立てているような家庭にとって、具体的な原因がわからないうちから漁業を禁止されると死活問題であることはわかります。しかし少なからず、具体的な対策を取れなかった行政に被害拡大の原因があるように思います。そして、原因物質がメチル水銀であるとわかってからのチッソ工場の対応(排水に含まれるメチル水銀が原因物質として有力である報告されても、すぐに排水停止にはしなかった。)も、もちろん被害拡大の一因であると思います。

 このように被害が拡大し、被害者が増加してくると、被害者の条件によって様々な症状の程度が現れるのは自然なことだと思います。例えば、漁業を営む家庭ではより多くの魚介類を食べるので重度の水俣病になりやすいし、幼児や老人も重症になりやすいと考えられます。そしてこの多岐にわたる症状の程度によって、水俣病患者認定問題がややこしく、矛盾した状態になったのだとおもいました。

 前述で、医師ではなく行政が水俣病患者をきめている矛盾した状態になっているといいましたが、もちろん行政側で水俣病であるかどうかを審査する医師もいることを忘れているわけではありません。<原告側に立ち、地元住民を水俣病と診断する医師>と、<政府側に立ち、水俣病患者であると認定する医師>この二つの医師像がビデオの水俣病患者認定問題で浮き彫りにされていたように感じます。どちらの医師も6年間勉強に励み,国家試験に合格して同じ医師免許をもっています。今、医師というものを想像すると、市中病院に勤めたり、開業して地域に密着した医療を行うようなどちらかといえば、前者のような医師像を思い浮かべてしまいます。けれど、立場が異なるだけで、どちらも根本的には同じ医師であると思いました。私は将来、どちら側の医師になるのかわかりませんが、どちらの立場に立っても、患者さんにどのように接するのか、どんな気持ちで患者さんと向かい合うのかなど、私の「医師像」をあと4年で作らなければいけないと痛感しました。