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(1)水俣病関連年表

1902   

野口遵が仙台市三居沢で藤井常一とカーバイド製造を試みた。

1906

野口遵が鹿児島県大口村に金鉱送電用の曽木電気を設立。

1908

曽木電気が日本窒素肥料会社を設立し、水俣工場建設。

1914

水俣工場の排水による漁業被害に、漁協が損害補償要求。

1930

日窒(曽木電気)、朝鮮に水力発電所建設、硫安生産。

1932

水俣工場でアセトアルデヒド生産、工場からメチル水銀流出。

1937

日窒、延岡に合成アンモニア工場建設。

1941

水俣工場で塩化ビニール生産、工場からメチル水銀流出。

1942

水俣市月の浦で水俣病患者発生(病院カルテから後年判断)。

1950

持株会社日窒が解散し、新日本窒素株式会社設立。

1953

水俣病第1号患者が発病した。

1956

熊本大が水俣病伝染病説を否定、原因を工場排水と指摘。

1958

新日本チッソ水俣工場、排水口を百間港から八幡に変更。

1959

有機水銀原因説答申の食品衛生調査会が、翌日解散。

1962

胎児性水俣病16名が認定された。

1963

入鹿山熊大教授、水俣工場排水中から有機水銀検出。

1965

新潟水俣病(第2水俣病)の発生が公式に確認された。

1966

新日本窒素が社名を「チッソ」に変更した。

1968

政府が水俣病を公害病と正式に認定した。

1969

患者138名がチッソに損害賠償を求めて提訴(1次訴訟)。

1971

環境庁が発足した。

1971

新潟水俣病訴訟で、新潟地裁が患者勝訴の判決。

1973

水俣病1次訴訟で、熊本地裁が患者被害者の勝訴判決。

1978

患者補償で経営難に陥ったチッソを、熊本県が県債で救済。

1983

待たせ賃訴訟。熊本地裁、認定遅延で熊本県知事敗訴判決。

1985

2次訴訟で福岡高裁、認定を狭めた熊本県知事敗訴判決。

1987

3次訴訟で熊本地裁、水俣病の国と県の責任を認める判決。

1988

最高裁、チッソ元社長と工場長の上告を棄却し、有罪確定。

1992

東京地裁、水俣病における国と県の責任否定の判決。

1994

大阪地裁、水俣病における国と県の責任否定の判決。

1996

水俣病患者とチッソ、政府解決案による和解。


(2)水俣病の概要

 水俣病の臨床症状には知覚障害・運動障害・聴力障害・視野狭窄・言語障害などがある。患者によっていくつかの症状の組み合せがあり、年齢病歴によって症状が大きく異なる。死亡者病理所見では、末梢神経の障害や大脳小脳の皮質障害が、水俣病患者に共通する。
母親が水俣病の場合、胎児が水俣病になり、水俣病に罹患して重い障害を持って生まれることもある(胎児性水俣病)。
 水俣病の原因物質は有機水銀(メチル水銀)である。
1932年日窒水俣工場(現在のチッソ水俣工場)がアセトアルデヒドの生産を開始し、1941年まで無処理のメチル水銀を水俣湾に排出した。
メチル水銀が水俣湾内の魚介類で濃縮され、沿岸住民がその魚介類を食べて有機水銀中毒になったものである。
1997年までに医学的に水俣病と認定された患者は 2262人である。そのうち 1,246人はすでに死亡していた。
加害企業チッソは責任を認め、認定患者全員に一時金1600万〜1800万円と年金・医療費などを支払った。
 また水俣病の認定申請をしても、認定の用件を満たしていない水俣病患者10353人には、1986年の政府解決策に従い、チッソが一時補償金260万円を支払った。
認定患者2,262人と非認定患者10,353人の合計12,615人が、公式に認められた水俣病患者数である。
 水俣病患者は1953年に第1例が確認されたが、しかし、すでに第2次大戦中に水俣病と同じ症状で死亡した記録があったり、現時点において発症直前の水俣病患者もあったり、申請できない事情の患者もいたりして、潜在患者まで含めた患者総数は12,615万人をはるかに越えると考えられる。


 チッソの水俣病患者補償金は、企業の支払い能力を越えて、経営そのものも危機的になった。水俣病患者の救済補償が行きづまる恐れがあり、熊本県が県債を発行してチッソに融資した。
熊本県債総額は1997年には3,218億円に達した。このうち2,446億円は、チッソが熊本県に返済する債務であり、2000年度からは、年間70億円の熊本県債を償還しなくてはならない。
 チッソの1998年3月期決算には、水俣病関連の特別損失87億円が計上された。内訳は水俣病患者への補償金57億円、水俣湾公害防止事業費21億円、政府解決案にともなう未認定患者への一時金8億円などである。
当期のチッソの赤字は47億円、累積赤字は 2,029億円である。液晶材料や石油化学製品の生産輸出は好調だが、水俣病患者の補償が経営赤字の最大原因となる状態が続いている。
 チッソがアセトアルデヒドの生産を開始した1932年から、生産を最終的にやめた1968年までに、水俣湾には100トンの水銀が排出された。485億円で水俣湾汚染海域の埋立と浚渫が進められ、1990年には埋立が完了し、公園に生まれ変わった。
なお、有機水銀中毒としての水俣病は、昭和電工鹿瀬工場の排出した有機水銀によって、阿賀野川河口でも発生した(第二水俣病)。

3)水俣病の原因

水銀原因説以前

 1956年に熊本大学の研究グループが、水俣病を新日本窒素水俣工場の排水が原因と発表した。
工場排水や水俣湾の魚介類からは多種類の有毒物質が検出されて、水俣病の原因物質を有機水銀と特定するのは困難であった。
マンガン・タリウム・セレンなどが疑われたが、これらの毒性と水俣病の症状とが完全には合致しなかった。
 1959年、有機水銀が新たな原因物質と疑われた、水俣工場原因説を否定するため、日本化学工業協会専務理事と、水俣工場でアセトアルデヒドの製造法を確立した橋本水俣市長が、爆薬投棄説を言い出した。
佐世保に大量に保管していた日本海軍の爆薬を、終戦時に水俣湾に捨てたが、その爆薬から海水に有毒化学物質が溶けだしたと考えたのであった。この爆薬説は、GHQの命令で爆薬を廃棄した当事者が名乗り出て、否定された。


 同じ時期に、水俣工場からの水銀原因説を否定する目的で、東工大清浦教授がアミン系毒物中毒説を主張し、マスコミで大いに注目された。腐った魚にはアミンができるが、それを食べた者が中毒を起こして水俣病を発症した、とみなしたのであった。

 

ハンターラッセル症候群

 1958年、水俣を訪れたイギリス人神経学者マッカルパインが、水俣病はイギリスの有機水銀中毒例によく似ていると指摘した。ハンターとラッセルは1937年にイギリスの農薬工場で起こった症状例と死者の解剖所見から、メチル水銀(有機水銀)中毒として、感覚障害・言語障害・運動失調・聴力低下・求心性視野狭窄・脳病変の特徴をあげていた(ハンターラッセル症候群)。
 これから水俣病の原因物質として水銀が疑われ、水俣病が有機水銀中毒と判明するきっかけになった。
しかし、水俣病が有機水銀中毒として認定された後、認定審査会がハンターラッセル症候群を患者認定基準にしたため、典型症状とは異なる慢性・重症・軽症水俣病患者の多くは患者認定を受けられない原因にもなった。

 

有機水銀の検出

 熊本大学医学部水俣病研究班を中心メンバーとする厚生省水俣病食中毒部会が、有機水銀説を確認するために水俣工場の排水や海底の泥、魚介類を調査したところ、水銀が検出された(1959年)。
水俣病患者の頭髪や発症ネコからも高濃度の水銀が検出された。それが無機水銀か有機水銀かは分析はできなかったものの、水俣病の原因物質としては有機水銀の疑いが強かった。
 1959年11月12日、厚生省食品衛生調査会常任委員会が、水俣病は魚介類に含まれる有機水銀による中毒である、と厚生大臣に答申した。
しかし、翌日、政府は厚生省食品衛生調査会常任委員会を解散消滅させた。
代わりに、経済企画庁に水俣病研究連絡協議会を発足させた。アミン説を主張する清浦東工大教授など、水俣病水銀説を否定する委員を中心メンバーとした。
この協議会の開催は非定期的で、間もなく協議会そのものが自然消滅した。政治工作が功を奏した。

 1960年、熊本大学医学部の内田教授が水俣湾産貝からメチル水銀(有機水銀)の結晶を抽出した。瀬辺教授は64種類の有機水銀をマウスに投与し、水俣病を発症させる有機水銀化合物が、メチル・エチル・N−プロフィル基であることを突き止めた。
 1961年、入鹿山教授は工場排水からメチル水銀(有機水銀)を検出し、それをネコに与えて水俣病を発病させた。熊本大学の一連の研究から、工場排水中の有機水銀が魚介類中に集積し、それを食べて水俣病が起こることが確かめられた。
 一方、チッソ(当時は新日本窒素)では、1959年、チッソ付属病院の細川院長が水俣工場の排水をネコに与えて発症させ、水俣病の原因が工場排水であることを確認した(400号のネコの実験)。
1962年には工場排水からメチル水銀を検出、ネコに与えて水俣病を発症させた。
チッソ内部ではこれらの事実は秘密にされ、表向きは工場排水は水俣病の原因ではないと主張していた。
政府が水俣病を、水俣工場のアセトアルデヒド製造過程で生成されたメチル水銀化合物による有機水銀中毒と認定したのは、1968年である。

 

4)水俣病裁判

 水俣病関連の裁判には、
@被害者がチッソに損害賠償や医療費などを請求した民事訴訟、
A被害者が国・県に早急な被害認定を求めた行政訴訟、
Bチッソの元幹部の水俣病発生責任などを問う刑事訴訟がある。

 提訴前には水俣病の責任の所在が不明確であったが、民事訴訟の結果として加害企業チッソの責任が明確になった。
行政訴訟では企業を擁護して患者を救済しなかった行政を断罪し、患者救済を急がせた。
刑事訴訟では加害企業チッソが水者病の原因を知りながら有機水銀を排出し、胎児性水俣病を発症させたが、その責任は社長と工場長の刑事罰が相当するとした。


第1次民事訴訟 

 1968年、政府は水俣病の原因を工場排水の有機水銀と公式に認めたが、患者団体の水俣病患者家族互助会は、損害補償を厚生省に一任するかしないかで、一任派と訴訟派とに分裂した。
 1969年6月14日、訴訟派の水俣病患者29世帯112人が、水俣病加害企業チッソに損害賠償を請求した。この訴訟が、日本の4大公害裁判の一つである。
 当時、すでに有機水銀原因説が確定していたが、水俣市は国内屈指の化学メーカーのチッソとともに繁栄した企業城下町である。チッソを提訴した訴訟派は、水俣市の地域社会の中で孤立し、全国に金銭的精神的支援を求めた。
 1973年3月20日、熊本地方裁判所は、チッソの過失責任を明快に認め、患者側勝訴の判決を言い渡した。
1959年の見舞金契約(チッソが追加負担をしないこと)についても、公序良俗上認められず、無効とした。
チッソが患者に支払いを命じられた慰謝料は、患者の病状や病気期間に応じ、Aランク1800万円、Bランク1700万円、Cランク1600万円であった。
チッソは控訴せず、慰謝料を支払った。この後、患者団体とチッソの間で、治療費や介護費について、補償協定が結ばれた。

 

2次民事訴訟

 

1973年1月20日、水俣病被害者の会の未認定患者31世帯、 141人が、認定制度が不備であるとして、直接、チッソに損害賠償を求めた訴訟である。しかし原告の未認定患者が裁判途中に患者認定を受けたため、最終的に認定されなかった13名が原告として残った。
 行政的には水俣病と認定されなかった13名(うち、1名は死亡)が、熊本地裁が独自に患者認定できるかどうか、医学鑑定を採用した。
鑑定人の原田熊本大学医学部助教授と椿忠雄新潟大学教授の見解が一致しなかった。
 1954年3月28日、熊本地裁は12名のうち10名を水俣病と認定し、患者1000万円の慰謝料とした。
第1次訴訟の慰謝料より低額のために患者が福岡高等裁判所に控訴したが、チッソも熊本地裁が独自に患者認定したことを不服として福岡高等裁判所に控訴した。
 1985年8月16日、福岡高裁は水俣病患者の慰謝料は増額にはならなかったが、患者の認定をより広範囲とすることを求める判決を下し、結果的に患者側勝訴となった。
患者認定作業の迅速化と、認定の症状の要件が緩和されることが求められた。


第3次民事訴訟 

 1980年5月21日、水俣病被害者の会の未認定患者と家族が、チッソだけではなく、国と熊本県にも国家賠償を求めて熊本地裁に提訴した。
すでに1973年の第1次訴訟の熊本地裁判決において、チッソの企業責任が明確になっていたが、第3次訴訟においては、水俣病の認定作業の遅れや水俣病の原因判明後の被害拡大について、本格的に行政の法的責任を追求した。
 チッソが水俣病被害者に賠償を続けたため経営不振に陥り、将来の賠償能力に不安があった。
水俣病被害者が、第3次訴訟で国・熊本県に責任を認めさせると、チッソが賠償金を支払えなくなった場合、国・熊本県に賠償を代行させることができた。
 1993年、熊本地方裁判所は国と熊本県の行政責任を認めた。1959年に食品衛生調査会が有機水銀が水俣病の原因物質と疑われると答申した時を、行政が原因を認識すべき時とした。
水俣湾の汚染防止に水質二法、汚染魚介類の販売禁止に食品衛生法を適用すべきであって、被害の拡大を防がなかった行政側に、加害責任があった。
チッソ・国・熊本県の加害責任を、それぞれ8割・1割・1割と認定し、被害者一人当たり 1980万円の支払いを命じた。被害者側が国・県の加害責任はもっと重いとして、福岡高裁に控訴した。
 1995年12月15日、村山政権が最終解決策を閣議決定した。
従来の水俣病患者の枠を広げて、政府が未認定患者に一時金260万円を支給することになった。
医学的に水俣病患者とは判定できなくても、有機水銀中毒の疑いがある者には260万円を支給するのである。
 政府の水俣病への反省は、村山総理大臣談話の形で表明されたが、政府の直接責任を認めたものではなかった。水俣病患者団体は、政府の和解案を不満ながらも受諾した。
 政府の和解方針を受け、福岡高裁で国・熊本県と患者団体との和解が進められた。
1996年5月22日、他の訴訟とともに第3次控訴審についても、未認定患者側が訴訟を取り下げて、政府の和解案を受け入れ、一時金260万円を受領した。

 

 

刑事訴訟

チッソ刑事裁判 

 1976年5月4日、熊本地検はチッソの吉岡元社長と西田元水俣工場長を、水俣病を発生させた業務上過失致死傷で起訴した。
1973年に胎児性水俣病患者が死亡した刑事責任を追求したものであった。これはチッソに傷害罪で告訴された川本裁判に対抗して、患者団体が、1973年当時の会社幹部を告訴したことを受けた起訴であった。
 熊本地裁でチッソ幹部は執行猶予つきの有罪判決を受け、1988年2月には最高裁判決によって元社長と元工場長との執行猶予つきの有罪が確定した。

川本裁判 

 水俣病患者の川本輝夫代表が、1997年12月27日にチッソ東京本社に抗議に行った時、チッソの社員ともみあった。
熊本地検はこれまで水俣病患者の多くの告訴を拒否したのに、チッソからの軽微な告訴は受理し、川本代表を傷害罪で起訴した。

1980年、最高裁は、検察の起訴は加害企業チッソに一方的に加担する差別的行為であるとして、検察の上告を棄却し、川本代表を無罪とした。

行政訴訟

認定不作為違法確認訴訟 

 1974年12月13日、水俣病認定申請患者協議会 410名が、熊本地方裁判所に、熊本県の患者認定作業の遅れの違法確認を求めた行政訴訟である。
被告は熊本県知事である。
 環境庁が1971年に認定基準を緩和し、さらに1973年に水俣病第1次訴訟が患者側勝訴になってから、水俣病認定申請者数が激増した。
認定専門医が不足し、未処分が2千件を越え、認定待ちの申請者の審査日程は全く見通しが立たなくなった。

 1976年12月15日、熊本地裁は、熊本県の認定作業の遅れは人道上許容できず、不作為の違法であると判決、被告の熊本県知事は控訴せず、判決は確定した。
環境庁は、水俣病認定基準をさらに明確にしたが、それでも審査が進まず、未処分は一時6千件を越えた。

待たせ賃訴訟 

 熊本地裁が水俣病認定の遅れを違法と確認した(1976年)にもかかわらず、専門医による認定作業は遅れた。
1978年12月、水俣病認定申請者24名が国・熊本県を相手に、認定の遅れた者に、待たせ賃として、月一人4万円の支払いを求めた。
 1983年7月、熊本地裁は待たせ賃を月一人2万円とし、国・熊本県に認定申請者に総額 2800万円を支払いことを命じた。
熊本地裁と福岡高裁では申請者勝訴になったが、1991年、最高裁では福岡高裁判決を破棄して、差し戻した。
1996年9月、福岡高裁差戻し判決では、専門医による正確な認定判断の努力をしているのだから、知事には申請者を待たせる合理的な理由があるとして、国・熊本県の主張を全面的に認めた。
申請者は上告せず、敗訴が確定した。

ニセ患者発言事件 

 1975年、熊本県の審査で患者として認定されなかった2名が、環境庁の裁決で水俣病患者と認定された。
1975年8月、熊本県議会公害対策特別委員会の杉村委員長と斉所委員が、環境庁に認定制度の一元化を求める陳情に行った時、「認定申請者の中には補償金目当てのニセ患者が多い」と発言した。

水俣病認定申請患者協議会に所属する2名の申請患者が、1977年に杉村・斉所両県議を名誉棄損で損害賠償を求めて告訴した。
1980年、熊本地裁は杉村・斉所県議に名誉棄損があったとし、熊本県に対して謝罪広告を命じた。県は上告せず、県の敗訴が確定した。

 

5)水俣の現在

 

熊本県債

チッソは水俣病患者の賠償金支払いや水俣湾の公害対策費用の負担などで、累積赤字が2000億円を越えた。
水俣病患者への賠償金の支払いが不可能になったため、熊本県は水俣病患者救済を最終目的として、とりあえず経営危機に陥ったチッソを、県債の発行の形で救済した。
チッソは、2000年から毎年70億円の県債を償還することになった。

熊本県債 総額 3,218億円
  (うち、チッソ負担分は 2,446億円)
 内訳 ○認定患者補償金   1651億円 
     ○水俣湾ヘドロ処理   688億円
     ○未認定患者一時金等 797億円 
     ○水俣工場設備金     82億円

チッソ金融支援

政府は水俣病の政治責任を認めていない。水俣病患者救済費用でチッソが経営危機に陥った1978年以降、熊本県が県債を発行して政府の財政投融資を得、熊本県がチッソに貸し出す形を採用していた(県債発行方式)。
実質的には、国が熊本県をトンネルにしてチッソに融資し、チッソは水俣病関連費用を国の融資でまかなってきた。
政府が政治責任を回避しつつ、患者を救済するための苦肉の策であった。
 県債発行限度20年になり、チッソは2000年から毎年70億円ずつ県債を償還する。万一、チッソの経営が行きづまった場合、熊本県には2つの問題が生じる。
 第1に、熊本県が財政投融資の返済(償還)を、チッソに代わって国に償還しなくてはならない。
第2に、加害企業チッソの負担すべき水俣病患者の救済費用を、税金を投入して負担しなくてはならない。

 熊本県債の総額3218億円のうち、チッソ支払い負担分は 2446億円である。チッソの年間経常黒字は約40億円である。現在の赤字は、水俣病の賠償金負担のためである。しかし、40億円の年間黒字で 2466億円を返済するためには60年以上かかる。
 熊本県の不安は、チッソが60年間存続可能か、年間40億円の経常黒字が確実か、ということである。
そこで政府は、チッソを水俣病患者救済事業の終了までは存続させて、熊本県に責任が転嫁されないように、1999年6月、チッソ金融支援の抜本策を作った。

●1995年に村山内閣は水俣病の未認定患者に、一人当たり最終一時金として260万円を支給した。チッソは797億円を負担したが、そのうち国の補助分 223億円は、返還免除とし、チッソの債務を軽減する。
●チッソが熊本県への債務返還が不可能になった場合、その時点で国が債務80%を一般会計の補助金で肩代わりする。また、20%を地方交付税で負担する。
つまり、80%を財務省(一般会計)、20%を総務省(地方財政措置)が負担し、熊本県の不安を一掃することにした。
●加害者責任の原則から、チッソは患者補償金を支出する。万一、チッソが自力で支払えない事態が生じた場合、その時に関係省庁で協議する。

チッソ

 水俣工場では無機水銀も有機水銀も使用していない。石油から付加価値の高い先端技術製品として液晶・ポリプロピレン・肥料などを生産したが、現在は生産は休止中である。
 水俣以外に水島にも工場がある。毎年経常利益を40億円の優良企業である。
しかし、水俣病患者の補償金などのため、最終的には 100億円近い赤字が計上される。水俣病患者救済の資金繰りに苦しんでいる状態である。

水俣湾

 チッソ水俣工場の排水中に含まれていた水銀は、水俣湾底にヘドロとして堆積した。
熊本県水俣湾公害防止事業所による水銀ヘドロ除去事業は1977年に始まった。
水銀量は 100d、水銀ヘドロ量で151万u、浚渫された水銀ヘドロは埋立処理され、水俣湾は58haの埋立地になった。
浚渫埋立に13年を要し、1990年に終了した。総工事費用485億円は、国・熊本県・チッソが負担した。チッソの負担は65%であった。
埋立地は環境と健康をテーマにした公園として整備された。
 1974年1月から1997年まで、23年間、水銀汚染魚の拡散防止のため、水俣湾に全長4400bの仕切り網が設置された。
水俣湾の水銀ヘドロ除去と埋立事業が進み、魚介類の水銀濃度が低下したので、1995年から仕切り網が順次撤去され、1997年魚介類の安全宣言とともに仕切り網は完全に撤去された。