2025.1/19
倉敷の朝
こちらの高低によって、朝日は見えたり、隠れたり。
朝日が昇りましたね。
霜……
冷え込みました。
鉄塔……鉄塔と朝日。
蘆森川の朝日……川面に映っています。
おお、ここって、なんか歴史的な場所なんだ。
【天正14年(1586年)、宇喜多氏の家臣・花房職之(職秀)の次男として誕生。母は同じく宇喜多家臣・額田三河守の娘。早くに出家し池上本門寺の僧となっていたが、徳川家康に還俗を命じられ慶長元年(1596年)に家康に拝謁し、翌年に徳川秀忠の小姓となった。慶長4年(1599年)に徳川氏の重臣・榊原康政の養子となり、以後「榊原職直」と名乗った。これは、康政の側室が花房氏であり、また康政は宇喜多騒動の際に調停役を勤めたことがあり、それらの縁であろうと推測される。】
さて、備中高松駅の横の……稲荷参道踏切、そのまんま。
さて、高松城址に行こうかなって思ってはいましたが、その手前の清水宗治公自刃の地。
妙見大菩薩
【備中高松城の三の丸跡に建つ星友寺は、戦国大名・宇喜多氏の家臣で、後に徳川幕府旗本となった花房正成(1582年の備中高松城落城後に高松城主)の意向を受けて、その嫡子・花房幸次が他所から移して、宇喜多直家の菩提を弔うために直家の戒名から星友寺として開創されたといわれている。】
【高松山妙玄寺は、慶長5年(1600)、高松知行所の領主・花房職之公により花房家の菩提寺として建立された、備中高松水攻の名残をとどめる寺院です。別名、水攻寺とも称されます。】
寺院が並んでいるのですね。
その横に「ごうやぶ遺跡」
【ごうやぶ遺跡というものがありました。高松城三の丸総門のわきにあたり、田んぼの中に作で囲われて残っていました。高松城主清水宗治が切腹する船を追って、宗治の草履取だった七郎二郎と宗治の兄・月清の馬の口取與十郎が「一足先に三途の川でお待ち申します」とお互いに刺し違えて殉死したところと伝わっています。】
さて、改めて「備中高松」駅……恰も、「最上稲荷」駅の様な……。
帰り道……旧松山往来とのこと~備中松山城への往来ですね。
【岡山藩官道としての松山往来は、宇喜多氏時代に岡山藩が岡山城下の北側にあった山陽道を城下内に誘導させ、そこから放射状に「津山往来」、「倉敷往来」、「牛窓往来」、「金毘羅往来」、「鴨方往来」、そして「松山往来」という形で6つの官道、すなわち岡山藩六官道として整備したものである。経路は、岡山城下(岡山市北区)から板倉宿(岡山市北区吉備津)まで山陽道と重複。板倉宿より分岐し、総社(総社市総社)を経て、松山城下の惣門前「広小路」(高梁市内山下)へ至る。松山から岡山に向けて「備前往来」とも呼んでいた。】
帰路の足守川……太陽が大分、昇りましたね。
……さて、ここで、急遽、村に戻ることになり岡山道で戻りました。所用を終えて「黄粉餅」……
ぽっかり時間も出来たので……ショッピングを兼ねて、久し振りに「遠音」さんに行こうと思って……冬の大山!!
良い眺めです。
冬山には、登る元気はないですね。
久し振りの遠音さんです……何か雑誌に載ったりした(1月号の鳥取マガジンに掲載された様です)様子で……満車、そして一杯(びっくり)。
チーズケーキ(柚子は売り切れでした)と遠音ブレンド。
久し振りで、穏やかな午後でした。
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