2024.12/05
霜の朝。
雲も多し。
其のあとは青空も。
葉も減ってきた紅葉。
さて、県南へ(母の主治医のM先生とのアポあり)。
おお、PARMも冬模様。
今日は、ネットで見付けていた円城の石窯パン「焼き屋」さんへ……山の中にポツンと、
スコーンとレーズン、食べましたが旨い!! ハード系は、wifeさんも、daughterも大好き。
そして、時間が大丈夫だったので足守の葦守八幡宮。
【当宮は世にいう葉田葦守宮で応神天皇行幸の旧跡である。葉田葦守は応神天皇の皇妃吉備兄媛の郷里であり、応神天皇の22年9月この地に御臨幸になった。】
【応神天皇はこの行幸において、兄媛命の兄御友別命及びその子、兄弟のもてなしを受けたことを大変喜ばれ、吉備の地を分国し、長子の稲速分(下道臣の祖)に川嶋県、次子仲彦(上道、香屋臣の祖)に上道県、末子弟彦(三野臣の祖)に三野県、兄の浦凝別(苑臣の祖)に苑県、弟の鴨別(笠臣の祖)に波区芸県を与えられた。】
【このように当宮は吉備の国の建国にゆかりのある宮である。天皇崩御の後、御友別命の子中津彦命(仲彦)は、天皇の仁徳を追慕し、天皇の神霊をその行宮跡に斎き祀り、葉田葦守宮と称したのが現葦守八幡宮である。】
【爾来中津彦命の子孫で、葦守に居を構えた香屋臣(賀陽氏)は、一族中から相つぎ神主を送り出し足利氏末年に至るまで連綿と奉仕した。】
【葦守八幡宮は代々の守、介や武将からも崇められたが、中でも豊臣秀頼は慶長12年奉行小出大和守をもって神鏡一面を奉納され、豊臣家再興を祈願している。】
【平安時代末期の嘉応元年(1169)につくられた足守荘園図には庄の中央から少し北寄りの現葦守八幡宮の地に、八満山と八幡宮の文字が見え、社と鳥居が図示され鎮守の神として庄の信仰の中心になっていた当時の様子がうかがえる。】
【慶長年中従三位木下家定がこの地に移封後約250年間は同家累代藩主の産土神として、また領内総鎮守として、格別尊崇され、社殿の修理、祭典その他の費用に至るまで寄進された。】
摂社も立派に多く、そして庭園も。
これまで足守は何度も通っていましたが、ここは初めてでした。
西側と南側に石段があります、車を駐車場に停めたので、まず、西側から降りて、南側(古い鳥居があるらしい)から登ってみましょうかしら?
西側に向かう処には、鐘楼がありますね。
社寺一体の名残りでしょうか?
でも、石段の下の方は、神門ですね。
足守藩所縁の神社なんですね。
さて、こちらにも鳥居がありますが。
降りたところでは、保育園とかがありますが。
さて、mapによると、この降りた道。
大山道と書かれています。
【横手道:現在の岡山県真庭市延助から美作国・伯耆国の国境を越え、下蚊屋、御机(いずれも鳥取県日野郡江府町)を経て大山へ向かうものである。備前国・備中国方面からの道と接続し、山陽道・上方方面から大山へ向かう道の本道として位置づけられる。その道は、現在の岡山県岡山市北区生石橋(国道180号)を発し、足守
- 大井 - 吉川(岡山県加賀郡吉備中央町) - 田土 - 豊岡 - 鹿田(以下真庭市) - 落合 - 久世 - 三坂(十国)峠 - 釘貫小川
- 藤森 - 鳥居峠 - 郷原を経て延助に至り、横手道に接続するものであった。久世で出雲街道と交差する。】
新庄ではなく、久世から二川の方へ抜けるのですね。
こちらの鳥居は歴史に載るものだそうです。
眺めの良い小高い丘の上。
こちらは拝殿、真正面です。
さて、訪室!!
夕方、知己の先生にお出合いできないかなぁって、古巣へ。
この時間帯までは、秘書室も開いてるかと思ったら、働き方改革なんですね、閉まっていて途方に暮れていた時に、偶々、お出合いしたい先生がいらっしゃって、奇跡のタイミング。
良かったぁ。この病院玄関からの夜景は、ほぼあんまり見たことなかったです。
wifeさんは、福山……なのでdaughterと夕食で、味噌ラーメンの田所商店!
北海道味噌〜濃口。炙りチャーシュー、麺大盛。やっぱり味噌味が一番好き。旨い。
キキ。
三原のお菓子。
帰ったら星空。
みずしま財団たより、が、届いていました。また、すたっふさんから、先日の「あさがおカフェ」のお礼の絵葉書も同封されていて、感謝です。
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