2024.2/15
天ヶ降ったり止んだり・・・雲の多い、どんよりとした一日・・・
朝の微かな青空と、昼は・・・もう重い空。
車の用事で・・・津山のスズキへ・・途中、井上火の釜!! 古墳です。
【墳丘が流失し石室が露出している。円墳だろうか。埋葬施設は南に開口する片袖型の横穴式石室で全長約11m、玄室部長さ約6.4m・幅約2.1m・高さ約1.8m、羨道部長さ約4.6m・幅約1.4~1.7m・高さ約1.3mを測る。7世紀の築造。町指定史跡。】
円墳で、覆われていたのでしょうか?
最初は、津山のSUZUKIで・・・おうどん頂戴しました。
そこから真庭市役所へ・・ですが、道治いの蠟梅。
道沿い、あちこちの庭などで・・・見掛けました。
さて、もうちょっと時間があるねって思ってて・・・そうだ、美作追分駅・・・って思ったら、その向かいこの小さな山は「追分公園」
駅も良く見えます。~頂上は「養蚕」神社!
【本山貞市氏:旧河内村東谷生まれ、津山市二宮にあった養蚕講習所を卒業後、現在の農協上河内支所の北に「興蚕館」を建設して蚕種の製造を始めたが、事業経営に失敗すると再び養蚕業の先進地である群馬県前橋市に赴き、蚕種の研究を重ねて帰郷する。氏は人手に渡っていた「興蚕館」を買い戻し、自宅の近くに蚕種製造所を再興し、病気に強い「新白」種を世に出し大正末期から昭和初期にかけての養蚕振興に大きな役割を果たし、特に、「本山種」と呼ばれる優秀な蚕種は県下に知られた。昭和八年(1833)死去されたが、追分公園の頂上には、当時建てられた養蚕神社が祭祀されており、また公園中程には、氏の業績を讃える銅像(立像)が建設された。しかしながら太平洋戦争中に供出されて、いまはその台座のみが残されている。(落合町史より)】
【谷口實蔵氏:明治三年(1870)中河内で生まれ、閑谷学校を経て大阪医学校(現大阪大学医学部)に進み卒業後郷里に帰り医院を開業する。資性温厚にして常に慈しみをもって患者に接し、貧富にかかわらず、遠近を問わず、馬にまたがり、あるいは自転車で往診した。氏は薬価・診察料は意に介さず誰かれの差別なく親身に診療にあたり、氏の徳は四方に伝えられ医院の前は常に患者でいっっぱいであったといわれる。瀕死の患者も一度先生の往診を受ければ心残りはないと言ったという。また常に社会事業に関心を寄せられ、児童の保護、貧しい人々への施療、文化施設への想い等、尽力された。大正十四年(1925)五十六歳で没す。 氏の恩恵を受けた村人により大正十五年(1926)谷口医師の徳を顕彰して、ながく後世に伝えるため追分公園に記念碑が建てられた。(落合町史より)】
麓に泉があります。
そして、姫新線~中国勝山・新見方面下り列車!
無人駅ですね。ホームも一つ。
併設して「キリタローの館」
ファミリーもいるみたいです。
おお、鳥居も見えますよ~養蚕神社!(すごいネーミング)。
はい、真庭市役所、到着!!
まにぞうくんのファミリー。
雨ですね。
はい、新庄村に戻りました。
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