2023.3/09
今日は・・午後からは会議で蒜山ですが・・・・ちょっと寄り道で、真庭市見明戸の八幡神社へ。二川から蒜山へ抜ける道沿いで・・・前から、気になっていました。
【本神社の鎮座地一帯は建部郷(現在の湯原町、川上村、八束村、美甘村それぞれの一部)と称し日本武尊の名代として栄えた建部、佐伯部が住居していた。】
【佐伯の名は全国にみられるが、安芸の佐伯部は厳島神社を創建し神主となって平家と親しくし、源平合戦に平家滅亡して神主も追われ、棚守に降された。】
【建部郷の人々は佐伯部社(この郷の一宮)をもうけ深い信仰のもとに生活の基になしていたが、美作国にも源氏が進駐したので、神主は佐伯部社のご神体を菰で包み岩穴にかくして八幡様が氏神であると申し立て難をのがれた。】
【以来八幡神社と称しているが、建部郷の祖神に変わりなく人々はみあけどの八幡様と称え慕っている。幣死除け(特に安産祈祷・六三祈祷)は佐伯家の秘伝とされている。】
【平成17年に社名変更、現在に至る。】
赤い本殿の屋根ですね。
会議の時間もあるので、あまりゆったりとは出来ませんが。
さて・・・そろそろ、お参りを終了で。
会議の後・・・神庭の・・「KEN工房」さんへ・・・ケーキセット!
 
木曜ですが、お客様も多かったですね。
そして・・・真庭市医師会館へ・・・。
 
岡山県苫田郡鏡野町香々美へ向かうことにしましたので・・・と、途中で菜の花!!
既に蜂も来ています。
さて・・・鏡野町の香々美に到着しました。春の野の花たち・・・。
香々美川です。
畑などもありますが・・・この辺りは、初めてです。
目的地の法明寺火の釜古墳。
【法明寺跡にある横穴式石室を所有する、古墳時代後期の円墳である。】
【井上火釜と共に町内の代表的な古墳である。墳丘盛り土は、かなり崩壊している。】
【石室の側壁は5~6段積、全長は8.5m。玄室の高さ2.5m、最大幅1.9mである。せん道幅1mである。】
想定以上に、素晴らしい古墳でした。
そして、周囲に椿や白梅!
これもまた、素晴らしい!
ほんのに朱の入った梅も・・そして、蕗の薹も!
春近くですね。
曇り空でしたけど。
なんだか、気持ちも高まって・・・もっと歩こうかな!
いろんなものが目に入ります。
常夜灯や・・・「泉川之碑」
山茱萸!
白梅の彼方には・・冬の田圃。
こんな距離塚も。
そして・・・「万葉のみち」だそうです。
遠くまで、続いているようです。
ずっと歩いて行くのも、良いかもね~っていうか、結構ー15kmーくらいありますね。
さて・・・・ついでに、「圓通寺」さんへ。
オウバイが・・・きれい!!
立派な古刹ですね!
立派な山門です!
不動明王でしょうか?
こんな風景です。
 
少し曇り空の下が良いですね。
一本桜!!
さて・・・境内に向かいましょう!
素晴らしい松もあります!
【高野山真言宗準別格本山尊光院圓通寺は、元総持院と号した。弘法大師帰朝後この美作の地に密教を広めるため、当山を建立したと伝えられる。】
【古来より西の高野また二ノ宮高野神社の奥の院と称せられたが、永禄年中福田玄蕃盛昌(毛利の武将)桝形城を築き、寺を外衛として軍士の大半を住居させた。よって城陥るに及び寺も全焼す。】
【時の院主成瑜法印焼趾に草庵をいとなみ法灯を守る。現在別所と称する土地で、広大な敷地跡があり、昭和二十二年「金銅仏」が掘り出された。】
【三十八世覚清上人檀越を説き、現在地へ再建された。】
 【津山森氏入封の後、当寺へ対する帰依浅からず寺領百石を寄進されている。四十七世秀範上人の時、再度焼失したが再建され、本堂の棟木に「寛延四年(一七五一)秀範七十二才これを建つ」の文字が見られ、現在の建物は二百四十数年の歴史を有す。】
【近世の高僧として知られる竺道契・新弘栄師(両師に付いては岡山県大百科辞典参照)が住した。寺宝・文化財は数十点有する。】
本当に・・歴史の重みを感じるお堂が並んでいます。
本当に・・・足を伸ばして良かったです。
庫裡の方には・・・紅梅!
寺院の中では・・艶やかで良いですね。
さぁ・・・そろそろ、戻って行きましょうか。
これは・・・辛夷でしょうか?
位牌堂も立派ですね。
本当に落ち着いた良い寺院でした。
さて・・・再び、山門に戻ってきました。
あら・・・いわゆる寒桜かな・・・。
今日は・・沢山の花を愛でました。
ソメイヨシノ・・・も、もうすぐでしょうか?
車を停めた・・香々美小学校の・・まだ、南の方へ・・と思ったら、すいせんロードの看板で・・そちらへ。
季節は、もう少し遅いでしょうけれど・・・。
水仙も道沿い・・ずっと、植わってます。
そして、拡がる田園風景。
これは・・・町内放送ですか??地区内かな?
そして・・馬酔木も。