2022.1/08
土曜日です。青空、雲一つない・・・そして、霜!
残る雪と霜のコントラストも。
冬は冬の自然の美しさ。
アートです。
さて、午前中で終わって、帰路では、だいぶ、雪も溶けてきて~連休明けから、また降りそうですけど。

昼からどこかに行ってみようって、MAPを探していると、最近、ちょっとはまっている感のある山寺。
【祇園寺(ぎおんじ)は、岡山県高梁市巨瀬町にある真言宗善通寺派の別格本山寺院。山号は補陀洛山、院号は感神院。本尊は千手観音。】ここで、参道って印が、下山する方向の落葉が一杯の山道を示していたのが不思議・・・後になって意味がわかりましたが。
結構、長い石段を登って・・・立派な山門が見えてきました。
山門と鐘楼を兼ねていますね。
吉備高原の山は、南に向けて、ほんの少し低い山並みがずっと続いていて、絶景ですね。
【弘仁3年(812年)、空海(弘法大師)の創建と伝えられる。】
本堂が見えてきました。
山頂で静かな佇まいです。
お線香と蝋燭をお供えしました。
  
ここまでの道は結構、狭い山道でしたが(舗装はされていましたけど)。
皆さん・・・マスクをされています。
県指定の重要文化財です。
さて、横には【日本の古い信仰形態を残す神仏混清。神社とお寺が一体となった姿はとても美しく、また樹齢約1200年、空海のお手植えとも言われる天狗大杉は必見。】
そして、この天狗大杉も素晴らしい。
こちらでもお線香を。
  
本当に神仏一体です。
【812(弘仁3)年弘法大師の創建と伝えられる古刹で、江戸時代には、松山城主水谷氏の外護を受け、京都仁和寺の中本寺として栄えました。雲海がたなびく標高500mの山上にあり、平安時代の山岳仏教の姿を色濃く残しています。】
修験道ですね。
とあるウェブでは【住職によると、高梁「祇園寺」と京都「八坂神社」の関係は、過去に発生した火災で寺伝が焼失してしまい今では確認が出来ないとのこと。しかしながら昔からその名は祇園寺であり牛頭天王を祀っていることからも、八坂神社と関係があると考えるのが自然なことでは、とお話しされていました。】
こちらの摂社の阿吽は・・マスクしていませんでした。
そして、天狗大杉、再び。
すごいです。
さて、ぐるりと周りました・・・山も祇園山とのこと。
さて、ぐるりと周りましたし、庫裡の方へ・・おお、井戸も。
今日は、一日・・・青空も美しいです。
まぁ、おそらく住職さんたちも生活されているだろうから・・若干、そそくさと・・・。
でも、よい寺院に参らせて頂きました。
春には、桜も咲くようです。

さて、そこから・・・MAPで見て・・・山道を抜けて一つ西側の谷へと・・
狭い山道沿いに・・・お堂。
そこから・・・少し行くと、ぽつねんと鳥居。
鳥居の向こうは・・・MAPで見ると・・・ちょっと離れたところに、神社マークはあるけど・・・。
じゃぁ、試しに行ってみましょう。500mほど進むと・・・常夜灯と再び鳥居・・それも、地図の神社マークの方へ・・。
そこには、岩山神社があったのですが・・・でも、この神社は、東の園尾って地区から登ってくる感じですが・・・。
不思議・・二つ見つけた鳥居には「XX宮」って感じなので・・・祇園寺の「祇園宮」なのでしょうか? でも、向きがおかしい・・・????
【和銅元年(七〇八年)の創建という。国守が厚く崇敬し、天正十年十月、時の領主は社殿の頽廃を痛く憂慮して再建した。備中松山城主水谷左京亮勝宗を初め代々の城主から社殿造営に当って寄進、または助成があった。明治四十年五月二十二日に村社。昭和四年三月十一日郷社に列せられた。】
こちらも由緒は古そうです。
手洗いのところは、氷が。
さて、戻りましょう。
さっきの神社の所・・・やはり・・・祇園寺関連かなあ???

高梁市の巨瀬町ってところから、中井町西方の方へ・・抜けるのに・・・。「八丁坂」
ここが、そうか、さっきの参道の起点だったのですが、後で、MAPで見ると、相当に急峻な坂を登るみたいです。

さて、狭い山道を二けて・・・西方って所・・・方谷園です(山田方谷誕生の地、墓地です)。
津々川をわたります。
明治に作庭されているのです。上房郡中井村です。
暖かく感じていましたが、氷が張っていますね。
ここが方谷先生の墓所なんですね。
登った上にも、四阿があるので・・まぁ、少し登ってみましょう。
【備中松山藩儒・山田方谷(1805~1877)の功績・遺徳を末永く顕彰するため、時の上房郡教育会の拠出金により造られた小公園。明治43年(1910)5月に完成しました。】
【山田方谷は、幕末の藩政改革などに貢献した陽明学者。】
【園内には、三島中州撰文の方谷園記念碑、方谷山田先生墓(旧藩主・板倉勝静の書)、山田家歴代のの墓、茶席風神亭などがあります。】
あら、さっき氷が見えた池には・・・鯉たちが・・・。
冷たそうだよね。
さて、確かに、作庭100周年の看板もあって、びっくりしましたが、没後40年弱でこうやって称えられていたってことですね。
駐車場の地図で生誕の地って書いてあったのですが、わかりませんでした。
さて、戻りましょう。

そこから県道310号線(西方北房線)で。。。途中に・・こんな景色。
これは、新庄でも見ないなぁ・・・。