2021.7/01
今日は、木曜日で午後休診~でも、夜に用事で・・・近場・・・鳥取県日野郡日野町黒坂の「泉龍寺」
大槻家と同じ~曹洞宗です。
非常に落ち着いた佇まい。
境内には、お社や・・諸々。
ここには因幡二十二士の歴史があります。
【水戸藩主徳川斉昭の第五子徳川慶徳公が、鳥取藩池田家を嗣ぎ、16歳で鳥取藩に入ったのは嘉永5年(1852)のことである。その翌年より黒船の来航が激しく、ついに幕府は勅許を待たずに開港、通商条約を結んだので、幕府に対する非難は激しく、尊王攘夷論は討幕運動に発展していった。鳥取藩でも慶徳公はむしろ穏健な尊王攘夷の主義主張を抱いていた。このころ攘夷祈願のための天皇の大和行幸を願う天皇親征論が台頭してきた。この親征論について慶徳公はきわめて慎重にして時期尚早論であった。慶徳公はこのため、大いなる曲解を受け、慶徳公を中傷する張り紙が出された。】
【鳥取藩の天皇親征論の急進論者河田佐久馬以下の志士は大変驚き、協議の上慶徳公の疑いを晴らすには慶徳公の側近黒部権之助以下5名を斬る以外にないと判断した。文久3年(1863)河田以下22名は、京都本國寺の因州本陣に侵入し、黒部以下4名を斬り殺した。22名の内1名は自殺し、1名は行方不明となったので、後世この20名を因藩二十士と呼んでいる。慶徳公は側近の死を大変悲しんだが、藩の内外より助命嘆願もあり死罪にはしないという恩命が下り、京都の藩邸より黒坂に幽閉されることとなった。黒坂では庄屋を始め村役人が二十士を迎えて泉龍寺に案内した。黒坂での生活面は下記のこととされた。1、武術の稽古に精励する、2、外出は昼間、近くの村までは許可する、3、泉龍寺のみでは手狭であるので近くの寺院に分宿を認める】
【二十士の泉龍寺での8ケ月間の生活は、幽囚の身にいらだちを感じながらも、高い理想を持ち、心身の怠情にながされることを恐れ、剣術・柔道の稽古に専念し、歌を詠み学問をし、文武両道に精進したものであった。近隣の青少年にも武術や学問を教え、勤王思想の普及にも努めたので、周囲の村々でも二十士の高風や人格を慕ってくる者も少なくなかった。】
【二十士の業績を物語る数々の遺墨・遺品が泉龍寺に所蔵されている。遺墨としては二十士の寄せ書き(軸物2点)河田佐久馬以下8名の書(11点)遺品としては、本箱・文箱・文机等の勉学用品、木刀・竹刀・剣道防具・槍等の武芸用品、小袖・陣羽織・飯箱・碁盤・碁石等の生活用品24点の合計37点で、日野町の指定有形文化財に指定されている。】
お線香、そして、御朱印も頂戴しました。
【350年ほど前の慶長年間に、当時の黒坂城城主「関長門守一政」が建立したとされ、「禅室珍目大和尚」を開山に迎えています。一政は当寺開山堂において「開山」として日々供養されています。】
【当寺は、2回の水害と1回の火災に遭っており、350年前には現在地より約200メートル天郷川上流の杉ヶ谷の地にあったと伝えられています。現在の各伽藍は、災害の都度当時の檀信徒と城主と住職の多大の尽力により建立されたものです。】
【ご本尊は「釈迦牟尼陀仏」で、脇立文殊菩薩・普賢菩薩が安置され、本堂・庫裡・金毘羅堂・御大師堂・位牌堂があり、庫裡の裏には建立当時に築造された庭園があります。】
さて、墓地近くの駐車場では、スモモ? 杏? 背景に山があります。
さて、夜は・・・・夕闇近い、がいせん桜通り~から、須貝邸
いい感じの紫陽花。
さて、会食開始です。
今日は・・・自分の歓迎会をコロナ禍で、小規模に開催して頂きました。
レタスのしゃぶしゃぶも美味しい
お酒の味比べも・・・いやぁ、からさとかは違いがわかりますが・・・。
素麺にも、ひめのもち・・が混ぜてあって、少しもちもち。
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