8/28~
朝ジョグ散歩日記です。今週は木曜は早朝から移動だったので……金からです。
8/28
花々は・・走り終えてからですね。
いつもの通勤の道辺りです。
そして、最後・・少し太陽が~でも、その後は、猛暑な一日でした。
6km+αコースでした。
8/29
今朝は、最初っから雲も無く、朝焼けのグラデーションがきれい!
今日は、北へ
朝陽が出てきました。
この枝の下側の茶色のが、バッタか何かです。飛んで、この格好で収まりました。
矢部の民家の路地で
やっぱり、少しずつ、変化していきますもの、楽しみです。
そして・・あら、蛙たち
今日は縦長でした。
8/30
日曜ですが、どこかに向かうのではなく、基本、大回りで、距離を伸ばしたい(でも、6kmちょっとでしんどくなりますね)。
朝日がきれいに昇ってきました。
山地→加茂→津寺→上新庄→高松原古才→加茂・・・で、加茂神社(賀茂大明神)です。
【本神社の創建年月日、勧請年暦は不詳であるが、京都加茂神社を勧請したと、古老の口碑に伝えている。備中誌所載の神社で、日蓮宗蓮休寺が攝していた。】
【明治初年神主の攝に入った時から、宮守として寮住尼をおき所?等に当らせて今日に至った。】
【梵鐘に「鐘銘加茂明神弘化四年別当寺、日蓮宗法意山蓮休寺ニアリ」と明記している。攝社に天満神社、幸利神社があり加茂三社宮と称した。】
で、その後、少しはジョグにして、また、歩いてみたいな感じで・・(笑)(ノ_・。)
今日も暑そうです。
稲穂も・・そろってきました。
今日は、トンボ
最初、6.52、そして0.81、さらに1.24で、計8.57ですが・・なんとか、これくらいは休憩なしに行きたいですね。(笑) (。>0<。)
8/31
今日も北へ~なんか、ちょっと広々感があるのかしら?
足守川の土手を北上して~新庄上ってところ・・・
これって(右端)・・白い龍が登って行っているみたい!!!
造山古墳の近くから、また、方向転換ですが・・・・そして津寺の民家の当たりを・・足踏みやちょっと停まったりしながらでも、写真も、撮らせて頂きながら。
季節の移ろいですよね
そして、今日は、倉敷市矢部の高野山真言宗・日差山寶泉寺さんをゴールで、立ち寄りました。
初めて参らせていただきます。
【備前四十八ヶ寺を建立したことで知られる奈良時代の高僧・報恩大師(延暦14年6月28日 児嶋寺にて遷化)作の聖観世音菩薩を本尊としている。この本尊は、今は天台宗である岡山・金山寺の千手観音、京都・清水寺(報恩大師の弟子・延鎮禅師創建)の聖観世音菩薩と並び「同木異躰の三観音」として信仰を集めている。同寺は天平勝宝元年(749)、孝謙天皇の勅命によって報恩大師が建立した古刹である。大師は備中の日差山に上り一宇を建立し弟子に付属した。これが寶泉寺の始まりである。この弟子を「知久」(室町時代作・金山寺縁起にも有り)と称し、桓武天皇の代には、桓武帝の眼の病いに勅使を立てて詔令を下し召されて見事に開眼。その功によって「心浄大師」の大師号を下賜されている。以後、日差山にて遷化、大師廟が現在も残されている。同寺縁起によると、日差山は観音堂、薬師堂、毘沙門堂、鐘楼堂、仁王門、鎮守杜、その他諸神勧請の霊場であったと記されている。しかし、天正10年(1582)、織田信長・備中高松城水攻めの時は毛利・小早川隆景の陣所となったことから荒廃し、また慶長年間(1596~1615)の火災では本堂が灰燼に帰すれども、本尊は運び出し無事であったとある。当時は山内に12ヵ寺あったが、荒廃し2ヵ寺となり、寶泉寺だけが残ったとある。】
【ところで、現在の寶泉寺に安置されている同木異躰の観音菩薩像は、寛永13年から延宝6年(1678)の間、二度に亘って災難に遭いながらも難を逃れ、寶泉寺に還座するという逸話(池田光政公寄進の宮殿と脇仏)を残している。現在は17年に一度のご開帳で、平成三年に開帳法要が厳修され、文化元年(1804)作の版木から本尊御影が配られ多くの人々と縁を結んだ。日差山から現在の場所に寶泉寺が中興されるのは、『吉備国史』の記録から推察すると、延宝2年(1674)以降のようである。中興は宥泉法印となっている。つまり、本尊の観音像は日差山から二度の法難を受けるが、最後に還座する延宝6年には、現在の寶泉寺が中興されていたことになる。因みに、江戸中期、池田藩から石高二十石を受けていたと記されている。ともあれ、同寺は報恩大師作の「同木異躰の観音」を本尊として、そのあらたかな霊験と、地元民の篤い観音信仰によって、今日にその法燈を受け継いでいる古刹である。】
知りませんでしたが、説明から、歴史あるお寺さんなんですえ。
そこからは、矢部を抜けて、いつもの農道
そして、今日の、地球の仲間たちですが。。。アマガエルと。。。バッタの関係者さんかしら??
今日は・・結構な距離でした。
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