2020.12/12
急に夜、真庭市久世の旧遷喬尋常小学校跡地で所用が出来て・・・往路で、ブラリと、院庄館跡。
というか佐楽神社です。
【鎌倉時代から室町時代にかけて美作国守護の館(「院庄館」)があった地に、後醍醐天皇とその忠臣児島高徳を祭神として、明治2年(1869年)、津山藩主松平慶倫により創建された。境内には約100本のソメイヨシノが植えられている。また、神社の敷地全体が、国指定の史跡「院庄館跡(児島高徳伝説地)」となっている。】
沢山の案内板が、まずあって・・・元々の主語の館に加えて、児島高徳伝説の二つが被さっているようです。
さて~神社の方に向かいましょう!
【1331年(元弘元年)に鎌倉幕府の打倒に失敗し囚われの身となった後醍醐天皇は光厳天皇への譲位を強制された後、翌年3月になって京から隠岐へ配流されたが(元弘の乱)、その途上、美作国院庄の守護館に宿泊した。一方、備前国の土豪児島高徳は手勢を率いて、護送の途中で先帝(後醍醐天皇)を解放しようと企てたが、好機を見いだせないまま院庄まで追跡してきていた。厳重な警護をかいくぐり守護館の庭に単身潜入した児島高徳は、桜の木の幹を削って白くなった所に、次のような十字詩を刻んだ(「白桜十字詩」と呼ばれる)。】
【天莫空勾践 時非無范蠡~【書き下し文】天、勾践を空(むな)しうすること莫(なか)れ。時に范蠡無きにしも非ず。~【大意】天は、呉との戦いに敗北し捕らわれた越王・勾践を見捨てなかったように、先帝を見捨てることもありません。勾践に范蠡という忠臣がいたように、先帝を助け出す忠臣が必ず現れましょう。】
【江戸時代になって津山藩家老、長尾勝明は児島高徳の忠義心を讃え、1688年(貞享5年)、その桜の樹があったと伝わる場所に、高徳顕彰碑を建てた(現存)。】
【そして、津山藩主松平慶倫は、1868年(明治元年)に政府から神社創設の許可を得て、翌1869年(明治2年)11月27日に社殿が完成し、作楽神社の創建となった。1877年(明治10年)、県社となり、1903年(明治36年)、従三位の神階を贈られた。】
元々の守護の館跡なので、境内は、その構造のままで、周囲が広く拡がっています。
今は、水が無かったですが、館の周囲には、ぐるりと濠があったようで、平城的ですね。
いろんな~歴史が。
碑も多い!
十文字が刻んである像です。
夕暮れ時で、周囲をお散歩の方もいらっしゃいました。
歴史が複雑に入り組んで……。
美作にはあまり訪れないので・・・貴重なブラリ
井戸の跡も。
さて、ぐるりと回りました。