2020.11/21
午前は大人の半休で~玉野市八浜の八幡宮
ここに一度、参拝にって思っていたのですが、なかなか、来れてなくって~
【元川の出雲谷にあったものをその後現在地に移転したもので、創建年月日は不詳であるが、現存する最古の棟札によると応永34年(1427)12月27日とあるので、それ以前に創建されたものと思われる。】
 【この棟札他2点が玉野市重要文化財に指定されている。池田藩主が代々に亘って崇敬した神社であり造営、修繕、社領、代参、寄進等を行った。池田継政公直筆の絵馬が現存している。】
落葉が沢山
おそらく宮司さんでしょうね、落葉を箒で集められてました。
でも『いくらしても、一緒ですけどね』って、確かに、まだまだ、落葉しそうでしたが。
併設する(棟は別ですが)快神社です。
【1729年、児島湾に大きな材木が流れ着いた際、材木から音楽が聞こえたので割ってみると、中から衣冠束帯の老翁が現れたといいます。そんなこんなで、その老翁を祀ったのがこの神社の始まりだそうです。備前岡山藩の第3代藩主・池田継政直筆の詠歌&絵馬が納められているそうです。】
児島湖が見渡せます・・・この堤っていうのか、堰っていうのの、右(東)が児島湖、左(西)は鴨川の河口ですが、鴨川は児島白尾辺りからの短い川ですが。
さて~まだまだ、ぐるりと回りましょう。
改めて八幡宮の本殿です~大きな本殿で勇壮な印象。
天気も良くなってきました。
玉野市八浜登ると八幡宮で。普段着でしたけど宮司さんでしたでしょうね、これが珍しいと〜宮司さんも最近、参拝に来られた徳島の方から伝えて頂いたとの事でしたがこの石塔、五角柱です。確かに珍しい‼️
ここは両児山の・・片方(北側)の山頂で・・・56.4mくらいの標高ですが(こちらは青龍山だそうです)・・・その麓までの石段沿いに摂社があります。
本当は八浜の町からこの石段で登ってくるのでしょうね。
落葉で滑りそう!
もう、ほぼ降りてきました。
そして、町並みの方に、社務所もありました・・・大鳥居も
さて・・・また、今度は、石段ではなく・・遊歩道的な法で・・
そしたら、臨済宗妙心寺派の宗蔵寺さんの、伽藍の上のお堂で、公孫樹の絨毯
折角なので、境内に降りてみました。
静謐な佇まいでした。
そして、銀杏の落葉の絨毯が季節を静かに染めていました。
結局、山門を抜けて・・入口まで戻っちゃいましたが。
周囲にもお寺さんがあるようですが。
さて~脇道から・・また、両児山へ
この辺りに児童公園もあって・・・色付きと・・そして、町並みも眺めることができます。
今年は秋色が際立っていますね。
そして、招魂社
両児山の方へ登ると・・八濱城址だそうです。
確かに堀跡も~って感じですね。
検索した情報は、最後に。
山を登る道路では麓の玉野光南高校のきっと陸上部、坂登練習してました。ボクも中学でやったよな。そして、彼ら、彼女らは、とっても礼儀正しくって、感動しました。
【天正七年(1579)宇喜多氏は毛利氏から離反して織田家重臣・羽柴秀吉の傘下となったため、以降毛利氏と激しく対立するようになる。そのため宇喜多直家は毛利氏の攻撃に備えて、天正八年(1580)基家に命じて八浜城を築かせた。しかし天正九年(1581)、直家が没すると、毛利氏の山陽方面を担当する小早川隆景は児島郡制圧のため常山城に進出し拠点とした。対して宇喜多氏は、宇喜多基家(直家の弟・春家の子)を総大将に八浜城を本陣とした。毛利軍は八浜城攻略のため、穂井田元清を大将にして常山城と八浜城の中間点にある麦飯山に陣城を構えた。天正十年(1582)二月、麦飯山近郊の柳畑で両軍は小競り合いから本格的な合戦に発展し、宇喜多基家が流れ弾により倒れたため宇喜多勢は劣勢になり八浜城へ退く。毛利軍は追撃するが、宇喜多勢は戸川秀安、岡豊前守、八浜七本槍と呼ばれる家臣たちの踏ん張りにより、毛利軍の追撃を撃退。その後、羽柴氏と毛利氏の和議によって毛利氏と宇喜多氏の領土境界が確定し、城の重要性も薄れ廃城となる。】