2002.11/17
午前中に、真庭市久世の公民館へ・・・大槻が委員長を務める大学コンソーシアム岡山の社会人教育委員会・・その中で、今年度からの企画で「備美っと大学キャラバン隊」があります。
県内の大学非所在自治体と、大学コンソーシアム岡山参加の大学教員のマッチングで、自治体のイベントその他で、レクチャーなりを試みるというもの。
今回、真庭市の春陽大学からSDGsの「すべての人に健康と福祉を」という事で、倉敷芸術科学大学の濱家輝雄先生(前・山陽放送アナウンサー)による「人をひとりぼっちにしないまちづくり」のご講演でした。
さすが話術は本職❗️ 素晴らしい会、記念すべき1回目(発案企画の素は大槻なので)になりました。
参加者の皆さん、濱家先生、真庭市の皆さん、事務局のSYさん、本当にありがとうございました。
本当に・・・さすがアナウンサーさんで、所謂スライドではなく、板書と、後は・・講話! それも魅力ですよね!



さて、早朝から移動して、今日は、美作の熊野神社です。
【当社は小野道風(66才)・藤原佐理(17才)にて昇殿を許され、内裏が完成した天徳5年(961)勅名により紀州熊野三山を美作国河内庄に分祀。村上天皇の天徳5年(960年)那智宮を上河内村下村に、永観年中(983~984)下河内村に新宮を、また上河内村に本宮を分祀された。】

【 時の国司藤原佐理、権守源時中が奉仕した三山の中の本宮が現在の熊野神社であり新宮、那智夫々に約50丁(旧1里)を隔て、紀州の縮景の趣がある。社殿の景観は本宮は豪壮に、新宮は優美に、また那智は枯淡である。この三山をもって河内庄の鎮守とした。】
 【朝廷は神田200石を寄進し、神官社僧各12人を置き祭祀を厳修せしめた。美作国西6郡の3年に1度の大祭は津山市二宮高野神社の社前で国守の安泰を祈祷する祭りであるが、この閏年祭は明治に至るまでしめの大夫須田越中守(当社祀職)が祭典を調理した。当時は作州西六郡に下知し、最盛期は祀職200員を越える作州最大の祭典であった。旧境内地は東西483間、南北495間、約1キロメートル4方で神社を中心に僧房、堂塔・郎党等を配置し、戦国時代は須田越中守郎党は50数騎を数えた。】
【明治維新神仏判然令により寺院護持のため神社境内地は中心100間四方となった。森氏国除以前の修営は国守においてその費を補助せられていた。現本殿は嘉永3年9月9日上棟。】
【明治5年戸籍編製に際して旧35区の郷社に列し、昭和20年8月10日県社内定を受く。明治44年には上河内地内の、大正2年には中河内地内の各神社を合祀した。】
 【戦後境内社として護国神社、氏子祖霊社を創建、毎春祭祀を行っている。】
今日は霧が深いのです。
そして・・その中での紅葉・黄葉が~幻想的
【本殿右にオイツキ様の社があります。オイツキ様とは、宮司さんのお話によれば「首から上は兎に似て、首から下は犬に似て四肢はすらりと長い」お姿とのことです。オイツキ様は、一年ごとに持ち回りで氏子衆の家に安置されお祀りされています。このため、お社が開帳しオイツキ様の像が公開されるのは、氏子衆の家から戻ってくる、年に一回のオイツキ様祭りのときだけです。】
霧の深さで、余計に・・・日常からの離脱を感じさせてくれます。
県北は~やはり朝は冷え込んでいますね。
さて、ほぼ境内を散策しました。
五本杉も・・・幽玄
さて、最初の鳥居の所に、降りてきました。



さて、そのお隣は、天台宗中藏山美作圓融寺さん
こちらもまだまだ霧の中・・・
山門には仁王とのことで・・金剛力士像ですかしら!
境内まで上がってみると・・・瀟洒な感じもします。
不動明王もいらっしゃいます。
さて、中庭からの・・奥の山の方には、別の堂が……。
観音堂。
高い処が庚申堂です。
こちらへの拡がりがいい感じです。
そこから・・・道沿いに東へ向かうと・・先ほどの熊野神社との境の辺りで・・紅葉が美しい!
霧の中に浮かび上がるような・・・
そこから寺院の背景の様になっていきます。
なんだか、良い旅です。
秋を楽しめました。
さて、境内に戻ってきました。
そろそろ・・・公民館に(まだ、少し早いけど)。
本当に・・想定外に神社と寺院で、深まる秋を満喫しました。