2020.6/28
午前は、大学ですが~午後から、もうGW頃から定番になって、かつ密避け、ほぼ誰とも出会わない、無密の定番は、滝巡り~今日は、井原市の道祖渓に、地図では竜門の滝と載っています。丁度、雨も後で、水量も豊富、22mの高さとのこと・・そして、さらに、下流へ、下流へといくつかの滝が(竜王、末広、稚児の滝など・・・・(案内板にも掲載されていないのですが)・・・地理院の地図ですと、400mくらいの距離で100mくらいの高さを降りる中で、滝が沢山なのです・・・なので、まずは、滝の雄姿を(左)、その他、下流の滝も(みぎ)
 
このところの滝の中でも、一番感動的だったかなぁ・・・でも、横向きも・・・・・竜門の滝

そして、下流にいくつも続く滝の群

ここ、地図の上では、幾度も見つけていたのですが、訪れたのは初めてでした。
明治池っていうダム湖ですね。【井原市歴史館より:三村政太郎/年代(1848 - 1917 ):後月郡山野上村(現在の井原市野上町)に生まれる。家業の酒造業に励むかたわら自宅に塾を開いて多くの人に文字や漢学を教え、人々からは「先生」と尊敬されていた。明治9年、28歳の若さで副戸長になり、明治11年には戸長となり、その所管は西方・門田・木之子・東江原・神代・山野上の6か村にわたった。明治12年、政太郎が31歳のとき、初めて岡山県議会が開かれた際、坂田警軒とともに、後月郡から初代の県会議員に選出された。初期からの3回連続当選は、当時県内の他郡にはその例がなく、いかに人望が厚かったかがわかる。明治15年の大干ばつに見舞われ、政太郎は地域の農民の窮状を救うため私財を投じて救済に当たるとともに、西江原村の地主大山邦一と謀り、明治19年、池の用地を山野上村と青野村の境にある渓流の落ち合うところの口の淵に場所を定め溜池の計画を立てた。明治21年、着工し政太郎は自らその工事長となり、大山を庶務長に任命し、毎日握り飯を持って監督に通った。2年7ヶ月の歳月をかけ、明治24年、溜池は明治池と命名され、西江原町の才児・戸倉地域の水田面積は大幅に拡大された。】です。
周囲の道路の広いところで、停めて・・池周囲の道で、戻っていきました。
「道祖渓」は・・実はここが頂上で、本当はっていうか、一番下の西江原町から登って行くって感じかも知れません。
三村政太郎遺跡と書いてある石もあります~そして、少し降りれば、も圧倒的な竜門の滝!
ネットで見てみると、全く水の無い時もあるそうなので、今日は、やっぱり梅雨時だからかしら?
横からも落ちてきていますが・・・
行きましたよ証拠写真も
しばし。。。滝の音に浸っていました。
さ~遊歩道(これが、落葉が湿ってて、とっても、滑りやすく・・注意深くでした)に沿って降りていきます。
そうすると。。。いくつも滝があります。
渓谷美もいいし・・・紅葉の頃もキレイでしょうね。
緑も濃い
せせらぎであったり、滝であったりで・・・水音が結構、大きく!
今度は・竜王の滝とのこと・・・
八大龍王の石碑
座禅岩・・は、どれかな??
あら、河鹿の里から・・少し下流ですが・・河鹿蛙かな??
千本渕・・・
さて・・もうだいぶ下まで降りてきました。
この末広の滝は、はっきりわからなかったのですが。・・・まだ、他にも稚児の滝ってのもあるそうです。
途中でキノコ・・・
麓まで降りてきました【小田川の支流雄神川が、黒い輝緑岩の台地である雄神台と雄宝台の間を深く削ってできた渓谷です。雄神川は永祥寺の南へ流れ出ています。末広の滝、稚児の滝、竜門の滝、座禅岩、八畳岩、不動岩などの奇岩怪岩の間を流れる清流に、アカガシ、ヤブツバキ、ハナイカダなどの樹木が映えて、渓谷美をかもしだしています。永祥寺の開山実峰良秀の徳を慕って集まった童子のなかに、道祖神の化身である稚児がいたという伝説から、昭和初期に道祖渓と命名されました。その渓谷美は景勝地として世間に広められ、昭和30年7月19日に岡山県指定景勝地に指定されています。】
で、再び、登って行きましょう!!!
降りるときには気付かなかった「くぐり岩」~で、再び、明治池の周囲の道路に戻って・・・そこから少し東より・・「天狗岩」
切り立った崖・・垂直に道祖渓を見下ろします。
そこへの遊歩道からも竜門の滝!
さて~キノコを見付けてみたり・・可憐は花だったり・・
空もよく晴れてきました。
さて・・・そこから帰ろうかなって思ったら・・なんと合歓の木の・・結構な大木!!
おまけに道路より下から生えているので、丁度、目線の高さにも・・沢山の花
びっくりです。
圧倒的でした、これもまた!
そして・・・もう15年以上前かな、訪れたことのある井原市青野町の・・・「葡萄浪漫館」
美味しい!!!
葡萄畑の温室も広がっている感じです。
夜は・・家族は、最近、お肉、今日は「ステーキのどん」