2020.6/12
西での所用が・・思ったより早く終わって(っていうか、まだ、on going で蓄積されていて、今後も対応しないとならないのですが)・・途中で、戸島神社(@倉敷市玉島乙島)
駐車の位置の関係で、少し境内に斜めから入る感じになってしまいました。
【戸島は乙島の古名である。「備中誌」に戸島「名勝考」に「浅口郡乙島成ルベシ此處モ近キ頃ハ陸ヲ離レタリシ處ナリ」と見える。臨海家有晨起望戸島人「天のはら明けて戸島を見渡せば渚さ静かに波ぞよせくる」この歌は永承元年(1064)11月15日主基方備中国杢頭兼文章博士讃岐権介藤原朝臣家経の詠で大嘗会和歌集に記されている。創立年代は詳らかではないが、往古からこの地に鎮座していたと言い伝えられ、旧社名を養父母大明神と称した。明治4年戸島山鎮座の「養父母大明神」へ乙島八幡山鎮座の八幡宮を合祀の際、乙島の古名の戸島をとって戸島神社と改称し今日に至っている。約620年前の貞治元年に現在の小高地阿弥陀堂に来往した小幡大和守友義入道が、「養父母大明神」の社殿を造営し大剣、古鏡等の宝物を寄進している。】
境内にぽつんと、岩殿神社もあります【乙島の戸島神社の境内に、いつのころからか1つの岩がある。江戸時代の中期、境内拡張工事で、石工がクサビ穴を掘ったところ、数個の穴から赤い血が出てきて、工事ができなくなったという。仕方なく、岩はそのまま同じ場所に置かれていたが、その後も祭礼のたびに取り除いた方が良いとの声があがり、他の石工に依頼することになった。しかし、今度もやはり、クサビ穴を開けると、血が出始め、石工は驚いてお詫びに祠を建てた。そして、享保5年(1720年)には鳥居を奉納して、岩殿神社として祀った。現在でも、岩の東と西に数個ずつのクサビ穴が残っているという。】
相当前に、一度、お参りしたことが……。
横から入って、横の岡の公園に行って、降りたので・・鳥居からの石段は最後になってしまいました。
広い境内でした。



山というか岡・・標高45mくらいみたいですが・・でも、その上にも「山神社」
さて・・ぐるりと・・
この先は、水島灘に埋め立て地があって・・海岸線までは、遠いですね。
梅雨入りで・・・少しどんよりとした・・でも南は青空も見えていたのですが、この頃に、倉敷市街地は、豪雨の通り雨だったようです。
戸島公園ですね。



こんなのがありました・・高射砲の台ではってご意見も。



そして、岡山県立図書館のデジタル岡山大百科「岡山県新地図 明治43年(KM000/37)」を教えていただきました(見尾教授、ありがとうございました)。

その抜粋ですが・・この岡/山が・・海岸線で、半島みたいだったことも、よくわかりますね。