2020.5/05
今日も・・・AMは大学で査読依頼をこなしたり・・・でも、好天で、三密避けて、なら、どこかの滝へ!
stayhomeの徹底で、道は空いていて・・・当初予定より、遠出で、備前市三石
深谷(みたに)の滝が地図にありました~で三石駅に駐車場があったので、そこに車を停めて・・・1.8kmくらいみたいなので、あるこうかと・・
さすが、三石で・・・道沿いに耐火煉瓦が積まれています
ほどなく・・到着!!
少し歩くと・・すぐ滝です、近い!!
この後の行程も含めて動画でも~まずは縦長

このところ、渓流の中の段差が大きいって滝だったので、こんな風に・・流れ落ちるのは、久しぶり
上の雄滝は高さ15m、下の雌滝は7mとのことです。
今度の動画は、これもこの後の行程も含めて、横長で。

良い滝ですね。
そして・・・不動明王が。。滝の左の岩場に。
本当によく晴れた日で・・・素晴らしいマイナスイオン!
大槻が訪れた時に、帰られた壮年のご夫婦、そして、僕の後から若いご夫婦が来られましたが・・密は避けることが出来ていました。
気持ち良い!!
虹が・・
その横は・・龍神社
長い引用ですが【かつて深谷の周辺で、木こりが行き倒れていた女性を助けました。そのまま家で身体が回復するのを待つ内に二人は恋に落ち、そのまま夫婦となりました。そして初の子供の出産が近づいた時、妻の美滝姫は一人で産室に5日間籠もる事を告げました。
 しかし5日間の途中で大きな音がした為、木こりは産室を覗いてしまったのです。そして妻の正体が龍である事を知ったのです。美滝姫は正体が知られてしまうと人間界にいられなくなる事を伝え、天に帰る事になってしまいました。そして世話になった男性の為に清水の絶えない滝を残していきました。その滝こそが、深谷の滝なのです。】

そうなんですね。
比較的、近くにこんな滝を見付けたら、伝説も生まれますね。
さて~後ろから来られたお二人は、戻られました。
なんか・・・社の後ろに・・道のような道でないような・・・
で、興味の赴くままに登ってみたら、途中は。岩登りだったりもして、道も、でも、なんとなくあるような・・ってか、50㎝の幅もなく、落葉で一杯で、どうか分からないのですが・・でも、最後の岩々を乗り越えると・・滝の上でした。
おおおおお。感動!!!
滝の上は・・渓流ですよね・・・ここで切り立っているってことで。
気分爽快!
周囲は、新緑の山、山……。
ここには・・あまり、ほとんど、ほぼ、人は来てないっしょ!!
さて・・降りましょう(岩場もなんなく降りれました。
さて・・・まずは、滝は終了
で案内板やアプリの国土地理院のMAPで観ると・・この先に進むと、途中から、三石城跡(城山)=300m弱・・くらいへのy登山道もあるそうなので・・・時間もあるし、好天だし!!! 登ろう!
いろんなツツジの・・ここは、人の手が入ったキャンプ場でもないけど・・そんな感じでした。
なんか・・気持ち良いですね!
さて、登山口が見えてきました。
最初。、幾キロは、自動車道でした・・・そして、駐車場に(一台、停まっています)。
ここから山道・・・MAPで見るより昇り降りがありました。
ゼンマイ??
第一展望所は・・・東に向いて・・・播州の山々!
第二展望所は・・・西南向き!
この向かいの山に登ると頂上が城跡ですね。
鶯丸です。。
そして、大手門側と本丸側が分かれ道で、最後、頑張って登ると・・本丸・・・お子様二人連れの若いご家族四人がちょっと先に到着されたみたいです(子どもたち、よく頑張りました)。
山の様子は動画で……。

鳥のさえずりや・・風の音もあるのですが、大槻のはあはあって息の音も・・・(。>0<。)
ヤマフジ
想定外の結構な登山になりましたが・・満足で、では、二の丸、三の丸、さらに馬場や大手門の跡を回って、今度は南側の登山道から降りましょう。
良い空間!
【三石市街地の北側にある標高291mの天王山山頂に位置する中世の連郭式山城である。最上部に本丸、一段下に二の丸、更に一段下に三の丸がある。三の丸端には石垣が認められる。三の丸北の一段低い部分に馬場曲輪がある。馬場曲輪の北に大手門があり石垣が残存している。本丸北には堀切があり堀切を隔てて出丸の鶯丸がある。岡山県の史跡に指定されている。】
馬場って・・馬もここまで登ったってことかなぁ・・・。
【『太平記』によれば鎌倉時代終末期の1333年(元弘3年/正慶2年)に三石保地頭の伊東大和二郎が南朝方に加勢し居館の背後にある天王山に城を築いたことに始まると伝えられている。大和二郎は西国から六波羅救援に向かう北朝方に対抗した。南北朝時代の1336年(建武3年/延元元年)には九州へ敗走する足利尊氏が家臣の石橋和義に守備を命じ新田義貞の追撃軍を足止めした。赤松則祐が備前守護となると浦上宗隆が守護代となり1365年(貞治4年/正平20年)三石城に入城した。以後、室町時代から戦国時代にかけて概ね浦上氏の居城となった。】
山の頂上は、確かに、攻められても守れるのでしょうけど・・・籠城してても、食糧とかすぐに尽きそうな・・・・
途中から、少し登ると・・千種井戸・・底なし井戸だそうです。
【1441年(嘉吉元年)嘉吉の乱が起こる。赤松氏当主の赤松満祐は室町幕府6代将軍足利義教を暗殺し、山名持豊(宗全)を主力とする幕府軍に居城を攻撃され自害した。これにより備前は山名氏の配下となった。1467年(応仁元年)応仁の乱に乗じて満祐の甥・赤松政則が備前守護となり主家の守護復帰に尽力した浦上則宗も守護代に復帰した。政則の死後、則宗は養嗣子の赤松義村に家督を相続させ赤松氏の中で権勢を振るうようになり、次第に赤松家中で対立を深めていった。】
【則宗の2代後の当主・村宗の代になり主家との対立が決定的となる。1519年(永正16年)村宗は三石城に籠城し、赤松義村は三石城を包囲した。しかし浦上方は包囲軍を敗走させた。1521年(大永元年)には義村を幽閉し殺害した。こうして浦上氏は戦国大名となった。村宗の嫡子・政宗が本城の室山城主、次男の宗景が三石城主となった。宗景は兄との不和から1554年(天文23年)播磨国境より離れた天神山城を築いて移り、三石城は放棄された。】
さて・・降り立ちました・・・まずは飲み物(何も持たずに、歩き続けたので)。
さて、三石駅に向かって歩いていたら・・三石明神社の案内板!
【別名「三石明神」、「孕岩神社」ともいわれます。「神功皇后がご懐妊中にこの地を訪れ、大きな岩にご休息になったところ、境内にある岩や石は小石を孕んでいるようになった」と言われており、子宝の神様として信仰を集めています。】
石をもらって・・授かれば、返しに行くらしいです。
さて・・次へ……。
ひっそりとし町並みを抜けていっていたら・・煉瓦の・・・そうです、三石耐火煉瓦株式会社!
備前~日生~三石は、耐火煉瓦が盛んです。
そして、駅の方に!!
見えてきました!
【1890年(明治23年)12月1日 - 山陽鉄道の仮駅として開業[2]。船坂隧道東口(現在地より神戸寄り約3.2km)にあった。当時の所在地表示は兵庫県赤穂郡船坂村梨ケ原(現在の兵庫県赤穂郡上郡町梨ケ原)であった。】
【1891年(明治24年)3月18日 - 山陽鉄道の岡山駅までの延伸に伴い現在地に移転、本開業。旅客・貨物の取扱を開始。当時の所在地表示は岡山県和気郡三石村三石であった。】
【1906年(明治39年)3月28日 - 三石村が町制施行して三石町となり、所在地表示が岡山県和気郡三石町三石になる。12月1日 - 山陽鉄道の国有化により官設鉄道の駅となる。】
この駅に来ると・・・遊佐未森さんの「夏草の線路」が頭の中で、響き始めます・・・さて、最初は、深谷の滝往復で3キロ半くらいの予定でしたが、山道含めて、アプリは9キロ以上歩いたとのこと・・・。三密避けて、良いお休み!