2020.2/26
午前中有給休暇の半休(今年度から確実に消化しないとならないので)として・・・備後国分寺
【奈良時代、聖武天皇の詔で全国66ヶ国に1ヶ寺ずつ設置された国分寺(金光明四天王護国寺)のひとつ備後国分寺の後継寺院で広島県福山市にあります。奈良時代創建の備後国分寺は、戦国時代には衰退し、天文7年(1538年)の神辺の合戦で堂宇は焼失しています。天文19年(1550年)に薬師如来を本尊として再建され、翌年には毛利元就も参詣。】
そうです、これで、漸く、備前・備中(総社の吉備路の国分寺ですよね)・・と共に、備後にも参ることが出来ました。
【建立されてからも度々災難に遭っている。永禄4(1567)年、兵火に罹る。時の神辺城主杉原盛重再建。慶長5(1600)年、福島正則により寺領没収。延宝元(1673)年、寺院の西側を流れる堂々川の洪水により草堂僅か一宇残るばかりとなり、本尊及び一二神像皆漂散してしまった。延宝7(1679)年、時の福山藩主水野勝種候網付山の材を用いて再建。元禄5(1692)年、薬師堂建立。】
【その後方丈仁王門を如實上人が建立し、「寺刹の形を成すといえど昔の10分の一にもならず」(福山志料)、現在に至る。本尊は薬師如来で中世以後のものである。正式には唐尾山醫王院国分寺。】
昨夜は、いつくらいまで降っていたのかしら? まだ、雨の名残が・・・・
【昭和47(1972)年から同五一年にかけて発掘調査がされ、金堂跡、塔跡、講堂跡、南大門跡、築地跡等の伽藍配置から、東に塔、西に金堂、その背後に講堂が並ぶ法起寺式の配置である事がわかった。塔、金堂を囲む中門跡、回廊跡は未検出。寺域は東西180m、南北はそれより少し長いかもわからない。また、西面築地跡は堂々川の堤防下となり調査はできない。塔、金堂跡ともに、基壇上の化粧や礎石は失われていた。わずかに版築された基壇土を確認。】
【塔は一辺が18m、金堂は東西29.4m、南北20mと推定される。講堂跡は版築土と礎石列が検出され、東西30mと推定されたが南北はわからなかった。】
【大量の瓦、須恵器、緑釉陶器が出土した。瓦は奈良期から室町時代に亘るものが出土している。更に寺跡の下層には弥生時代の集落跡も埋もれている。】
【御領遺跡と呼ばれる広域にわたる弥生時代集落跡が眠る一帯に含まれている所でもある。】
六地蔵も・・・平穏な・・境内でした。
再び山門へ
さて、山門の外、どちらかの畑なのかどうか、梅です。
雨あがりっぽくって、花弁にも雨粒
なんか、曇天・・重い雲
紅梅は・・花も少なかったです。



午後からは、岡山大学鹿田キャンパスで、成瀬教授が会長の5/25-27の第59回日本生体医工学学会大会の実行・プログラム委員会。
なんか、さくさくって早く終わったけど・・・
さて、外来や管理棟の横から・・・いつもの入院棟の横の花壇へ。
最近、よく来ていますが、少しずつ春めいて
沢山咲いています。
俯き加減の花も・・
こちらは、青空も垣間見えます。
多肉植物も



さて、久しぶりにT-CLIPさん