2020.1/12
今日は、成人式とか、倉敷市でもしていたようですが、大槻は、AMは大学でごそごそと、daughterは午後半ばまで美容室・・で、その後、少しお出かけ
大槻は、12月にも訪れたのですが、Wifeさんが・・・五流尊瀧院に出かけてみたいとのことで・・
休みの日の夕方近くのためか・・ひっそりとしていて・・
大きな木・・・
さて、そこから車で移動で・・・同じく、五流尊瀧院なのですが、熊野神社の方へ・・
ここの三重塔や、後鳥羽上皇の宝塔(桜井宮覚仁親王と冷泉宮頼仁親王が、隠岐で亡くなった父君である後鳥羽上皇の一周忌供養のために、1240(仁治元)年に建立したものと伝わる)も。。。五流尊瀧院所属で・・その先が熊野神社(勿論、明治の神仏分離前は一体でした)。
鐘もつきました(小さな音でしたが)
いつきても、この三重塔は立派医です。
少し上の方・・・・



さて・・・熊野神社:【修験道の祖と言われる役小角は文武天皇3年(699年)、朝廷より訴追を受け、熊野本宮に隠れていたが伊豆大島に配流された(続日本紀)。社伝によれば、この際、義学・義玄・義真・寿玄・芳玄ら5人の弟子達を中心に熊野本宮大社の御神体を捧持したとされる。彼らは3年にわたり各地を放浪し、役小角が赦免となった大宝元年(701年)3月、神託を得て現在の地に紀州熊野本宮を遷座したとされる。天平12年(740年)聖武天皇が児島一円を熊野神社の社領として寄進した。天平宝字5年(761年)には紀州熊野と同様の社殿(十二社権現宮)を整え、付近の木見に新宮を、山村に那智宮(現・由加神社本宮、蓮台寺)を建て新熊野三山とした。熊野神社と修験道の寺院が一体となった神仏習合の形態を取る宗教施設として栄えたが、平安時代中期以降は衰微した。承久3年(1221年)承久の乱が勃発し、敗れて隠岐に遠島となった後鳥羽上皇に連座して、上皇の第4皇子頼仁親王が児島に配流となった。頼仁親王は衰退していた熊野神社と寺院を再興し、以後、南北朝の頃まで繁栄した。室町時代になり応仁の乱が勃発すると、この地も戦乱に巻き込まれ応仁3年(1469年)には細川勝元方に加担した覚王院円海を中心とした兵により新熊野は焼き討ちにあい、ほぼ全焼した。明応元年(1492年)より焼き払われた建造物の再建が開始された。現在、国の重要文化財に指定されている第二殿はこの時造営されたものである。現在見られる第二殿を除く社殿は正保4年(1647年)に池田光政によって造営された。明治時代になると神仏分離令により、十二社権現は熊野神社となり他の寺院(五流尊瀧院)は天台宗寺院となった。平成15年(2003年)9月、明和5年(1768年)建造の拝殿(修験道では「長床」と呼ぶ)を失火により全焼[2]。平成19年(2007年)10月に再建した。
Daughter & Wife は初めてだったみたい!
ちゃんとぐるりと回ってお参り。
由緒ある神仏なんですよね!
でも・・そうそう、初詣は、来週・・毎年恒例の由加山に行くつもりなので・・



そこから・・倉敷の方へ戻ろうとして・・交差点の角に、ベーカリー
BAKERY LAB KONPAN・・・さん、人気店の様です・・でも、以下に示すように、その後、ワールドビュッフェ 倉敷堀南店で、3人とも、これ以上ないってくらいに食べすぎたので・・・購入した(食パンも一斤ではなく、一本買いました)・・パンは明日・・



翌13日になって・・・パンを食べました。美味しい!!