2019.12/19
倉敷市大学連携講座の講師をライフパーク倉敷で務めてきました。
皆さん、熱心に聞いてくださいました。また、自己免疫疾患(膠原病)の患者さんもご参加頂いていた様で、終了後に少し質問にも答えるようにしました。
ライフパークもクリスマス・モード
向かいの城山などは、晩秋
少しだけ風邪気味で・・・講義の途中で二度ほど、咳込んで申し訳ありませんでした(そして少し鼻声)
花壇は、でも、パンジーがいろいろ
山茶花ですか?
さて、今日は、ライフパークに行く前に・・・五流尊瀧院
【修験道の寺院。本尊は十一面観音。天台修験系の一宗派である「修験道」の総本山である。】
初めて訪れました。
【修験道の祖と言われる役小角(役行者)は文武天皇3年(699年)朝廷より訴追を受け、熊野本宮に隠れていたが伊豆大島に配流された(続日本紀)。役行者について正史が伝えることは以上であるが、伝承によれば、この際、義学・義玄・義真・寿玄・芳玄ら5人の弟子達を中心に熊野本宮大社の御神体を捧持したとされる。彼らは3年にわたり各地を放浪し、役小角が赦免となった大宝元年(701年)3月、神託を得て現在の熊野神社の地に紀州熊野本宮を遷座し、5人の高弟それぞれが尊瀧院、大法院、建徳院、報恩院、伝法院の五流の寺院を建造した。中でも尊瀧院が中心寺院となった。】
【奈良時代に入ると皇室の熊野崇敬と相まって天皇の崇敬を受け、天平12年(740年)聖武天皇が児島一円を社領として寄進した。天平宝字5年(761年)には紀州熊野と同様の社殿(十二社権現宮)を整え、付近の木見に諸興寺と新宮を、山村に由伽寺と那智宮(現・蓮台寺、由加神社)を建て新熊野三山とした。】
【熊野神社と修験道の寺院が一体となった神仏習合の形態を取る宗教施設として栄えたが、平安時代中期以降は衰微した。】
【現在の五流尊瀧院は倉敷市立郷内小学校北に隣接しているが、元来は400mほど北の真浄院北側にあり熊野神社と隣接していたと伝えられている。現在も三重塔、鐘楼などは熊野神社境内に接して建つ。】
ということで、確かに訪れた時は、給食が終わった頃? さらに、そうなんだ、何度か訪れている熊野神社の三重塔や鐘楼が・・どうして、神社に結構、堂々と・・って思ったら・・その所縁の寺院はこちらだったのですね。
奥には稲荷神社
さて、戻りましょうか・・
【重要文化財の「石造宝塔(後鳥羽上皇御影塔)」仁治元年(1240年)前年に死去した後鳥羽上皇の一周忌供養のため頼仁親王と覚仁親王により熊野神社南方に供養塔を建立したとされる。伝承によれば中には上皇の分骨が安置されている。同時に廟堂・経堂が建造されたが応仁3年(1469年)の戦火で焼失した。なお、「宝塔」とは円筒形の塔身に宝形造の屋根を架けた形式の塔婆を指す。】これも熊野神社の駐車場の横です。
冬の寺院の庭園
なかなか、味わいがありますね。
さて、帰路で「3時の王様」
ここは、久しぶりでした。
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