2019.2/09
京都ホテルオークラにて、京都府立医科大学の酒井敏行教授の退官記念ならびに創薬センター新設の記念会が開催されました。
1時間のご講演もありましたが、誠に素晴らしい業績と、一途な想いに圧倒されました。
懇親会も非常に和やかな雰囲気です。
祇園の芸妓さんによる祝舞も披露されました。
素晴らしい!
更に京都府立医大ご卒業で、音楽家の道に進まれた石上真由子さんの演奏が披露されました。さすがのプロです。1/23に、コロンビアからCDリリースとの事です。凄い!
お料理もおいしい~大槻は、日本衛生学会理事長ということで、来賓挨拶の4名のうち一人として、スピーチもさせて頂きました。
創薬センターが新設されて、まだまだ、ご活躍になられるとのことです!
京都市役所の前ですね。
終了時には、夜…キラキラです。



さて、少し早めに京都入りしまして、「ちょっと寄り道/ブラ@タケミ」・・・・実は初めての知恩院です!
圧倒的な三門です!国宝なんですね!
そして、これも国宝の御影堂は……修理中でした。残念!
時間もあるので、阿弥陀堂などを巡ります。
白梅!
ほんのりピンクも・・・
【浄土宗総本山の寺院。山号は華頂山。詳名は華頂山知恩教院大谷寺。本尊は法然上人像(本堂)および阿弥陀如来(阿弥陀堂)、開基(創立者)は法然である。】
そうなんですね、浄土宗の総本山!
【浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、現在のような大規模な伽藍が建立されたのは、江戸時代以降である。徳川将軍家から庶民まで広く信仰を集め、今も京都の人々からは親しみを込めて「ちよいんさん」「ちおいんさん」と呼ばれている。なお他流で門跡に当たる当主住職を、知恩院では浄土門主(もんす)と呼ぶ。】
東山山系に連なって行って、もう、山の斜面沿いです!
【知恩院は、浄土宗の宗祖・法然房源空(法然)が東山吉水(よしみず)、現在の知恩院勢至堂付近に営んだ草庵をその起源とする。法然は平安時代末期の長承2年(1133年)、美作国(岡山県)に生まれた。13歳で比叡山に上り、15歳で僧・源光のもとで得度(出家)する。18歳で比叡山でも奥深い山中にある西塔黒谷の叡空に師事し、源光と叡空の名前の1字ずつを取って法然房源空と改名した。法然は唐時代の高僧・善導の著作『観経疏』を読んで「専修念仏」の思想に開眼し、浄土宗の開宗を決意して比叡山を下りた。承安5年(1175年)、43歳の時であった。「専修念仏」とは、いかなる者も、一心に弥陀(阿弥陀如来)の名を唱え続ければ極楽往生できるとする思想である。この思想は旧仏教側から激しく糾弾され、攻撃の的となった。法然は建永2年(1207年)には讃岐国(香川県)に流罪となり、4年後の建暦元年(1211年)には許されて都に戻るが、翌年の1月、80歳で没した。】
そうですね、法然上人は、岡山県のご出身!久米南町に誕生寺があります。
御廟の方に・・・
【法然の住房は現在の知恩院勢至堂付近にあり、当時の地名を取って「吉水御坊」「大谷禅坊」などと称されていた。ここでの法然の布教活動は、流罪となった晩年の数年間を除き、浄土宗を開宗する43歳から生涯を閉じた80歳までの長きにわたり、浄土宗の中心地となった。ここに法然の廟が造られ、弟子が守っていたが、嘉禄3年(1227年)、延暦寺の衆徒によって破壊されてしまう(嘉禄の法難)。文暦元年(1234年)、法然の弟子である紫野門徒の勢観房源智が再興し、四条天皇から「華頂山知恩教院大谷寺」の寺号を下賜されるなどして紫野門徒の拠点となっていった。】
冬の最中で、そんなにすごく参拝の方々もいらっしゃらずって感じで、海外の方が多いですね!
曇天ではあったのですが…身が引き締まります!
もう、東山山系の斜面です!
NHKブラタモリ的な・・・石・岩です!
【建治2年(1276年)、鎮西義の弁長の弟子良忠が鎌倉からやってくると、間もなくして紫野門徒の百万遍知恩寺3世信慧は東山の赤築地(あかつじ)において良忠と談義を行った。そこで両流を校合してみたところ、相違するところが全くなく符合したので、以後源智の門流は別流を立てずに、鎮西義に合流することとなった(「赤築地の談」)。これにより、紫野門徒の拠点であった知恩院と百万遍知恩寺は鎮西義の京都での有力な拠点となった。永享3年(1431年)に火災にあって焼失するが、間もなくして再興されている。】
【応仁元年(1467年)に始まった応仁の乱の際には、知恩院22世珠琳が現在の滋賀県大津市にある金蓮寺に避難、その後現在の大津市内に新知恩院を建立した[1]。そして、文明10年(1478年)に知恩院を再興するが、永正14年(1517年)にも消失する。大永3年(1523年)、知恩院25世存牛と百万遍知恩寺25世慶秀との間で本寺争いとなったが知恩院が勝利し、鎮西義で第一の座次となり本山となった。】
それでも長い歴史の中には、本流争いとかもあるのですね!
京都盆地が一望です!
この奥は…墓地ですので、入れません。
【また、戦国時代には縁誉称念による専修念仏集団一心院流(捨世派)が成立して鎮西義から分派し、天文17年(1548年)に法然上人御廟の向かいに一心院を建立している。さらに天正3年(1575年)には正親町天皇より浄土宗本寺としての承認を受け、諸国の浄土宗僧侶への香衣付与・剥奪の権限を与えられた(「毀破綸旨」)】
大鐘の方に・・・向かいましょう
本当にでかい!!!!!!
道続きで、お隣は、時宗のお寺さん~で、円山公園の奥・・
梅!
うん?山鳩?
さて、再び、知恩院の境内から、御堂の方へ・・・
【現存の三門、本堂(御影堂)をはじめとする壮大な伽藍が建設されるのは江戸時代に入ってからのことである。浄土宗徒であった徳川家康は慶長13年(1608年)から知恩院の寺地を拡大し、諸堂の造営を行った。造営は江戸幕府2代将軍徳川秀忠に引き継がれ、現存の三門は元和7年(1621年)に建設された。寛永10年(1633年)の火災で、三門、経蔵、勢至堂を残しほぼ全焼するが、3代将軍徳川家光のもとでただちに再建が進められ、寛永18年(1641年)までにほぼ完成している。】
【徳川家が知恩院の造営に力を入れたのは、徳川家が浄土宗徒であることや知恩院25世超誉存牛が松平氏第5代松平長親の弟であること、二条城とともに京都における徳川家の拠点とすること、徳川家の威勢を誇示し、京都御所を見下ろし朝廷を牽制することといった、政治的な背景もあったと言われている。】
さて、そろそろ時間です!
【江戸時代の代々の門主は皇族から任命されたが、さらにその皇子は徳川将軍家の猶子となった。1947年(昭和22年)、法然上人御廟を中心とする「一宗一元運動」を提唱し、知恩院は自らを本山とする本派浄土宗(後に浄土宗本派に改称)を結成し、浄土宗から分派する。1950年(昭和25年)には法然上人御廟の向かいにある一心院が浄土宗捨世派を結成して浄土宗から分派した。しかし、1961年(昭和36年)の法然上人750年忌を機に、翌1962年(昭和37年)に知恩院と浄土宗本派は浄土宗に合流し、知恩院が再び浄土宗の総本山となった】
いやぁ、歴史探訪って感じでした!
再び、圧倒的な国宝の三門
道沿いに・・北門