2018.10/28
東京へ:日本衛生学会の専門職制度対応委員会で、最初からの討論は、委員の皆様にお任せするのですが、最後に顔を出すと、少し物事が決まるかなってことで参加しました。
東邦大学医学部・・・初めて訪れました。
附属病院ではなく、医療センター大森病院っていうのですね。
医学部本館は由緒ある建物でした。
こんな街中なんですね、知りませんでした。



まずは、岡山駅で、 Hello Kitty SHINKANSEN
よく見るとkittyちゃんのタスキには、FukuokaとかYamaguchiとか、書いてあるのですね。! パーサーさんもピンクのエプロン



早めの到着で、これまで向かったことが無かった~まずは穴守稲荷へ!
駅から近くです、門前町っぽい商店街も
見えてきました。
鳥居が沢山!
【御祭神:豊受姫命(とようけひめのみこと)】
【社伝に云う。文化文政の頃 鈴木新田(現在の空港内)開墾の際、沿岸の堤防しばしば激浪のために害を被りたり。或時堤防の腹部に大穴を生じ、これより海水侵入せんとす。ここにおいて村民等相計り堤上に一祠を勧請し、祀る処稲荷大神を以てす。これ実に当社の草創なり。爾来神霊の御加護あらたかにして風浪の害なく五穀豊穣す。その穴守を称するは「風浪が作りし穴の害より田畑を守り給う稲荷大神」という心なり。そもそも稲荷大神は、畏くも伊勢の外宮に斎き祀られる豊受姫命にましまして、衣食住の三要を守り給える最も尊き大神なり。吾等一日たりともこの大神の恩顧を蒙らぬ日はなく、実に神徳広大なり。】
【殊に当社は明治以来、大正・昭和を通じて、最も隆昌に至った。参拝の大衆日夜多く境内踵を接する如く社頭又殷賑を極め、崇敬者は国内は勿論遠く海外にも及べり。然るに昭和二十年八月終戦にのぞみ、敗戦と云う未曾有の大混乱の中、米軍による羽田空港拡張の為、従来の鎮座地(東京国際空港内)より四十八時間以内の強制退去を命ぜられた。同年九月、地元崇敬者有志による熱意の奉仕により境内地七百坪が寄進され、仮社殿を復興再建。現在地(大田区羽田五丁目2番)に遷座せり。】
御嶽山もありまして~。
沢山のお稲荷さん!
【奥之宮と神砂(あなもりの砂):今は昔 羽田浦は要島に一翁あり 要島は干拓く島なれば堤にて固め成されり 然ど津波に襲し堤破るる事屡なれば 堤の上に祠を構へ稲荷大神を勧請するに 風浪の害止み之を以て穴守稲荷と称す。或刻 翁漁より帰りて魚篭を覗くに釣せし筈魚は無く只湿砂のみ在り 翌も翌々も大漁なれど同く魚は無く湿砂のみ在るを訝しく思ひし翁 村衆に此を談る 衆人此を狐の仕業とし穴守稲荷の社を囲みて狐捕へけれど 翁此を赦し放てり。此より後 翁漁に出ずる度大漁なり 魚篭には許多の魚と僅なる湿砂あり 嫗此の砂庭に撒くに忽ち千客萬来す 斯くて翁冨を得る。故 翁に肖り御砂以て招福の徳を得むと 穴守の砂求むる者四方八方より訪れり。尚 今日に至る】
御岳は奥之宮の真上です。
WIKIによると・・・【江戸時代には、「穴守」という名前が「『穴』を『(性病から)守る』」に通じると考えられて、遊女達の信仰を集めたという。】
参拝の方も多いです。
この辺りって、歩いたこともなかったですものね!
出世稲荷もありますね!
神楽殿もありますし、その奥にも稲荷!
境内も結構、広いのです!
【強制退去:穴守稲荷神社は明治、大正、昭和を通して人々の信仰を集めたが、第二次世界大戦が終わった直後の1945年(昭和20年)9月21日、羽田空港を軍事基地として拡張するため米軍(GHQ)より、範囲内の住民ともども強制退去を迫られることになった。これに対して地元の有志らは移転先となる稲荷橋駅(現:穴守稲荷駅)近くの現在の鎮座地700坪(2310 m2)を寄進し、現在は境内の整備を進めており、神社はほぼ昔日の姿を取り戻しつつある。】
そういうことなのですね。



さて、そこから少し歩くと、白魚稲荷神社
小さな神社です。
【創建時期は不詳だが、新編武蔵風土記稿・羽田獵師町の項では、同町の成立を江戸時代の正保年間(1645~1648年)以降、元禄年間(1688~1704年)前としており、当社が祀られたのは同時期以前の可能性が高い。新編武蔵風土記稿には「土人呼テ白魚稲荷ト云漁人白魚ヲ取コロ初テ得シ時ハマツ此社ニ供フル故ニカクイヘリ」と社号の由来も記されている。シラウオはボサエビやハゼ、シジミなどとともに多摩川河口で獲れる名物のひとつだった。明治以降は盛んになった多摩川での砂利採取業に従事する人々も信仰したという。火伏の神徳があり、戦時中羽田一帯が空襲で大きく被災した中にあって、旧社殿は戦火を免れている。】



さて、そこから海の方~羽田空港の方向です!
【羽田空港に残された鳥居:移設後の赤鳥居。移転前の社殿や他の鳥居はGHQによって取り壊されたが、門前の赤鳥居だけは撤去できず、そのまま空港の更地(後に駐車場となる)に残され続けた。この残された鳥居については以下のような流布話がある。
……
門前に建っていた赤い鳥居はとても頑丈な作りだった。ロープで引きずり倒そうとしたところ、逆にロープが切れ、作業員が怪我したため、いったん中止となった。再開したときには工事責任者が病死するというような変事が何度か続いた。これは、「穴守さまのたたり」といううわさが流れ、稲荷信仰などあるはずもないGHQも、何回やっても撤去できないため、結局そのまま残すことになった。— 京浜急行電鉄『京急グループ110年史 最近の10年』(2008年)「羽田飛行場の始まりと穴守線強制接収」抜粋
……
なお、強制的に住居を退去させられた後に整地に動員された元居住民らが、反抗心から意図的に鳥居を残したのだともいわれている。1990年代に入り、羽田空港の沖合展開事業にあたり新B滑走路整備の障害になるためこれを撤去する計画が出たが、地域住民らから穴守稲荷神社や強制接収の憂き目にあった旧住民らのシンボルとして残したいとの要望があったこと等から、拝殿の移設から半世紀以上経った1999年(平成11年)2月に移設されれることとなった。移転工事にあたって土台の周りを掘ると、鳥居が非常に頑丈にできておりロープで引きずり倒せるようなものではないことが判明した。鳥居をクレーンで吊り上げた時にそれまで晴天続きだった天候がにわかに雨風となり、クレーン車のワイヤーが揺れ動く一幕もあったというが、2日間の工事は滞りなく終わり、現在地の弁天橋のたもと(天空橋駅南、弁天橋交番近く)に移設されて今に至っている。】

おお、そしてこの辺りは、多摩川の河口なんですね!
釣り人たちが沢山!
家族連れさんも、多いです。
それぞれの日曜日
初めての場所は、なんだかウキウキします。
屋形船みたいなのも・・・。観光クルーズ?



この辺りは、「大田区羽田」ですね!
次に鷗稲荷神社!
名前の通りの海沿いの神社
【御由緒:社頭に現存する石鳥居の刻銘から、江戸時代の1845(弘化2)年頃以前に創建されていたことが伺える。海上安全、大漁祈願、火伏の神として旧仲町(現在の横町・稲荷前・下仲町の各町会)の住民により信仰された。漁師たちが祈願すると鴎が飛来し大漁になったことから、鴎は大漁の兆しと考えられた。このためいつしか社号に鴎の名が冠されるようになったという。1924(大正13)年頃社殿を新築したが、1945(昭和20)年の戦災で焼失し、戦後まもなく再建された。初午祭では篝火が焚かれ、羽田囃子や初午太鼓の奉納などが行われる。】
楽しい稲荷巡りでした。
 
さて、そろそろ・・・東方大学に向かいましょう!再び京急の「穴守稲荷駅」



会議終了後・・・京急「梅屋敷」駅ちなくの「ラーメンまんま屋」さんで、生味噌ラーメン
これ、すごく美味しかった! 味噌ラーメン好きにはたまりません!!
そして、品川駅でお土産は、ハロウィン!! お米のロールケーキでした。