2018.8/18-19
日曜日に社会医学系専門医協会の会議の連チャンでした。
いつもながら美味しいお弁当を、かつ、毎回、違うのって工夫を凝らしてもらっているので、満足です!
結構、缶詰なので・・・まずは、往路の新幹線で車窓の風景!
翌朝は、快晴の静かな日曜の朝ですが、新宿一丁目~富久町~六丁目って「ちょっと寄り道/ブラ@タケミ」です。
朝顔のある昔ながらの住宅地の小径を抜けて行きます。
まずは、抜弁天厳島神社です。
住所は、新宿区余丁町8-5
【白河天皇の御世、応徳3年(1086)鎮守府将軍・源義家公は、後三年の役で奥州征伐の途上この地に立ち寄り、遠く富士を望み安芸の厳島神社に勝利を祈願した。義家は奥州鎮定後その御礼に神社を建て、市杵島姫命を祀ったのが当厳島神社の始めと伝えられている。参道は南北に通り抜けでき、また苦難を切り抜けた由来から、抜弁天として庶民から信仰され、江戸六弁天の一つに数えられている。また山之手七福神を構成する弁財天でもある。江戸時代の地誌、大久保絵図(安政4年)には、別当二尊院・抜弁天と記載され、また他の絵図にはここに稲荷神社があったことも示されている。徳川綱吉将軍の「生類憐みの令」により、この附近に2万5千坪の犬小屋が設けられていた。】だそうです。
そこの看板で知る処になった、西向天神社! 割と近くなので、お参りしてみましょう!
新宿区新宿6丁目21-1が住所です!
【安貞2年(1282)に明恵上人(1173-1232)が創建したと伝えられ、社殿が西を向いているため西向天神と呼ばれました。また棗の天神とも呼ばれます。「江戸名所図会」ではその由来を不明としていますが、一説に三代将軍家光が鷹狩りの祭に立ち寄り、境内が荒れている様を見て、黄金の棗を下されたからといわれています。天正年間(1573-92)に兵火を受け焼失しましたが、村人により祠が建てられ、その後、聖護院宮道晃法親王が江戸に下った際に、元信という僧侶に命じ社殿などが再建されました。天保13年(1842)には富士塚が築かれ、現在でも境内に残っています。】だそうです。
ここは新宿六丁目ですが、藤圭子さんの「新宿の女」の歌碑があります。
デビュー曲ですよね。宇多田ヒカルさんのお母さん!母娘ともに衝撃的なデビューでしたよね!
境内も広いですし、鎮守の杜っぽいですよね!
いくつかの町内会(?)の山車の倉庫っていうか、も、ありますね。
【本社は、古来より東大久保村の鎮守社であった。現在でも境内は広く、椎の木などが森をなしている。正式には大久保の天満宮と称し、菅原道真を祀った京都の北野天満宮を勧請したものである。社伝によると、安貞2年(1282)に京都栂尾の明恵上人(1173-1232)が東国に五大尊寺を開こうとして、菅原道真自作の尊像を持って下向し、翌年当地の村人と計って祠堂を建てて鎮守としたことにはじまるという。これは伝承に近いものであるが、天正年間(1570年代)に兵火で全焼していたのを聖護院宮道晃法親王が東国下向の折に、大僧都玄信に命じて再興させたというから、同社の起源が、少なくとも中世までさかのぼることは考えられる。西向天神と通称しているのは、社伝が地形上西向きになっていることによる。さらに棗天神との俗称もあり、これは寛永年間(1630年代)に、将軍家の鷹狩りの祭に、当社が荒廃していたのを、金の棗の茶入れを下賜して、それをもって再興を促したという伝承によるものである。文化10年(1813)に、諸国を遊歴した僧の著した「遊歴雑記」という本には、この神社が、慶安から天和頃までは、境内に桜が多く、花見の名所であったこと、ご神体の木像の天神像は長さ7、8寸の荒木の座像であったといっている。明治5年11月に村社となり、社地は1516坪であった。境内には現在でも石造物などの文化財が多く、境内の西隅には富士塚もある。同社の別当寺は隣接する大聖院である。】という説明も。
さて、往路でも少し寄ったのですが、いつも訪れる「富久さくら公園」に戻ってみましょう~って思ってたら、こんな鳥が。
「富久さくら公園」
絆の向日葵・・・大きく咲いています!
花壇にもいろんな花々!
なんだか、ほっとします!
夏ミカン
これは・・・桃????
百日紅も
暑さも、お盆を過ぎて、ほんの少し和らいだでしょうか?
でも、19時くらいまで会議なんですよね!
さて、ここで十分和ませてもらったので会議、頑張りまっしょい
さて、富久さくら公園でも、西向店神社の境内でも~ムクドリさん
いろいろ啄んでいます。
あちこち眺めたり
ちょっとのんびりしていて羨ましい限り
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