2017.5/31
今日の午前は,ライフパーク倉敷で倉敷市大学連携推進会議
曇り空の下のライフパークです。
自然も・・
花壇も・・・(*´▽`*)

午後からは岡大津島キャンパスでさんさんコンソ(中国地域産学官連携コンソーシアム)の運営委員会に加盟校として本地参与といっしょに参加
本部棟です。
高いので眺めも良し!
ちょっと早めの到着で,キャンパスを「ブラ@タケミ」
この建物・・初めて中に入ってみました。
歴史ですよね!
そこから道路挟んだ反対側,ピーチユニオンとかのある処
キャンパスのも花々が
大槻の姪っ子が,この辺りに居るはずですが・・・
もう一度・・・本部棟の方へ戻って・・
ステキなモニュメント!
17時過ぎまで・・みっちりと運営委員会でした。産学官・・それぞれの立場の方,また,経過としてそれぞれを経験した人がそれぞれの意見・・・でも,なんとなく現場から離れてコンセプトだけの応酬的な???(内緒)

さて,本日は諸事情があって,某所からライフパークに直行・・で方向的にも,時間的にもちょっと余裕があって玉島の古い町並み
排水機場に・・花壇は花盛り
曇り空ですが・・・
そこから真如院さんという良寛和尚,縁のお寺へ
狭い路地を少し昇った辺りです。
ひっそりと佇む,って感じですね。
いろんな処に,歴史が埋もれています。
さて・・そこから又,古い建物が並ぶ通りへ
西爽亭があります。
【旧主屋に付属する座敷棟で、木造平屋建・本瓦葺きの建物です。天明年間(1781〜1789)に建てられたと伝えられ、備後国神辺(現在の広島県福山市神辺町)出身の儒学者である菅茶山(かんちゃざん)によって「西爽亭」と名付けられました。
西爽亭を構成する座敷棟・御成門(おなりもん)・茶室および庭園の中で、建築上特に優れているのが、御成門と座敷棟にある式台玄関です。通りに面する御成門は、本瓦葺きの薬医門形式で、屋根の四隅に意匠の凝った鬼瓦を乗せています。式台玄関は幅が2間あり、入母屋の屋根で、凸型に緩やかに傾斜したむくりのある唐破風様の妻飾がついています。式台玄関を入ると、「取次の間」「次の間」「上の間」と続きます。「次の間」「上の間」は、内部の仕上げこそ格別華美というわけではありませんが、天井が比較的高く、ゆったりとした数寄屋風の書院になっています。さらに奥へ進むと湯殿・小便所・大便所・手洗いが配置されており、江戸時代の上級武士の生活の様子がうかがわれます。屋敷地の南に建つ茶室は、台目(だいめ)3畳と中板からなる特異な平面をもつ部分と、庭の傾斜した部分に懸造(かけづくり)状に建てられた台目二畳の煎茶席で構成されており、美しい意匠をとどめています このような建築物群は、豊富な庭園の石組みと相まって、築造された天明期の風趣を漂わせています。】

雰囲気のある建物です。
今は貸会議室などでも使われているそうです。
同志社大学の新島襄も所縁・・・NHK大河の「八重の桜」では玉島はほぼ出てきませんでしたが。
干拓最初は塩分があるため,まずは綿花だったそうです。
御成門は殿様だけ・・この松も建物と同じく江戸中期からだそうです。
【西爽亭と熊田恰(くまた あたか:1825〜1868):備中松山藩士熊田竹兵衛の3男として生まれた熊田恰は,慶応4年(1868),鳥羽・伏見の戦いの際,幕府方の藩主・板倉勝静の親衛隊長として大坂詰で活躍しました。板倉侯から帰藩の命を受けた恰は,備中玉島港に上陸します。しかしこの時,松山藩は鎮撫使(明治維新政府が任命した臨時の征討長官)の征討を受けており,松山藩は恰の帰藩を認めませんでした。事情を知った恰は,行動を共にしている部下150余人の助命を嘆願し,西爽亭の次の間で自刃しました。この史実は,熊田恰が自らの命と引き替えに多数の部下の命を救い,その結果,幕末の戦禍から玉島が救われた話として,現在も語り継がれています。】
自刃の部屋は殿様のお部屋の隣だそうです。
この船で,新島襄は玉島から函館へ・・そして米国へってことだったそうで,この地域の同志社大の同窓生さんたちの寄贈だそうです。
古い町並みですね。
さて,そろそろ移動しないと・・間に合わない!

曇りがちでどこかへ行く訳でもなく,倉式珈琲店@青江で,メールチェックとカフェラテ
めったにカフェには行かないのですが・・・
大学の近くにもこのお店,出来ていますよね

で,帰路では・・・るぷらんたん さんで・・・お土産ケーキ・・・爽やかな彩りです。