2016.12/25
社会医学系専門医協議会が今月,一般社団法人 社会医学系専門医協会になって,最初の理事会が開催されました。
 

新宿御苑の近くで9:30-12:00の予定!! 
 
始発ののぞみでも間に合わないし,前の日は午後も用事もあるしで・・・サンライズ出雲/瀬戸で向かいました。

そうなると7:08に東京駅着・・時間もしっかりありますが,近くに行ってから「ちょっと寄り道/ブラ@タケミ」
中央本線で四ツ谷・・・新宿通りを西に・・そして,四谷の総社・須賀神社です。
もう初詣の準備が着々と・・・って感じになっています。
古い・・霊社も
この辺りは,狭い道路が入り組んでいて・・昔ながらの町って感じです。
さざれ石も・・
新年は賑わうのでしょうね
さて,ぐるりと境内も回りました。
 

まだまだ時間もあるので・・
この周辺は寺町で・・沢山寺院がありますが・・・朝早く,山門は締まっていました。

で。道路にあった案内板に沿って・・・於岩稲荷
なんですが,この陽雲寺さんも「於岩稲荷」そして,道路挟んで向かい側にも「田宮稲荷神社跡=「於岩稲荷」
どっちが本当?? って感じです。
【お岩さんが亡くなったのは寛永13年(1636)。 文政8年(1825)に四世鶴屋南北の歌舞伎 「東海道四谷怪談」 の初演が大好評をおさめ、以来、出演者たちのお岩稲荷参りが始まった。 明治5年、お岩稲荷を、お岩さんの嫁ぎ先の田宮家の名をとり田宮神社と改称。 ところが、明治12年に火災で焼失し、現在の中央区新川の田宮神社へ移転。 その間に陽運寺が四谷稲荷と称した。 昭和20年3月の東京大空襲で陽運寺も新川の田宮神社も焼失。 昭和27年に再建し、新川の田宮神社を本社とし、翌年、現在地へ戻った田宮神社を旧社と称することになった。】で,【陽雲寺さんが,その間に,こちらが於岩稲荷と掲げ始められたそうですが】---真偽は???
いずれにしても・・・散策的には,興味深いものです
  

さて,ここまで須賀町〜左門町,そこから外苑東通りを渡って・・・大京町へ
慶應大学医学部のある信濃町の北側です。
 
大京公園もあります。
 
住宅街の中の小さな公園

今度は外苑西通りを渡って・・・内藤町!
そこに多武峰内藤神社がありました。
【高遠藩内藤家の下屋敷内にあった神社です。内藤清成が内藤新宿に土地を拝領する以前からあった祠を寛政5年(1793)、12代頼以が再興し邸内の鎮守としたと言われています。多武峰神社そのものを勧請したと書かれている場合もありますが、神社の説明には、藤原鎌足を祀ったと書かれていて少しニュアンスが違いますがいずれにしても、多武峰神社の主祭神は藤原鎌足です。内藤家が藤原秀郷の末流と言われているため 、藤原氏の家祖である藤原鎌足を祀ったのです 。それが、明治5年に、内藤家の屋敷が大蔵省に収公された際にここに移転しました。当時は、武州多武峰神社と呼んでいましたが、昭和42年5月に多武峰内藤神社と改称されました。】だそうです。
で・・・【内藤清成の駿馬伝承に出てくる白馬を供養するため文化13年に建てられたものです。内藤家の駿馬伝承とは次のような話です。天正18年(1590)の江戸入府に際して功績のあった内藤清成に対して徳川家康は、清成の持っている白馬で一息に回れる範囲の土地を与えることにしました。 内藤清成は白馬にまたがって疾走し、現在の新宿御苑を含む、南は千駄ヶ谷、北は大久保、西は代々木、東は四谷という広大な土地を囲い込みました。しかし、白馬は疲れ果てて死んでしまったと伝えられています。】だそうです。
元々,屋敷の中の・・神社だったんですね。
そして・・・名残の紅葉
かつ・・・「鉛筆の碑」・・・これも興味深い
  

さて,会議の場所まで向かったのですが・・それでも,少し早すぎるで・・近くのドトールで朝のカフェラテでした。