2016.2/21
昨日,福知山医師会から講演で招聘していただき,無事に終了,また楽しく懇親会や二次会も過ごして,会場であったロイヤルヒル福知山です。昨日は結構な雨でしたが,朝は陽が差してきました。

今日は,倉敷に戻るだけ・・ってことで,昨日,福知山城を巡っていたら,幾つか,全然知らない歴史的な場所もあるってことで・・・調べて,和久寺ってところの廃寺跡と梅林に行ってみることに。。。
実際に福知山で暮らしていたのは中学校までなので・・この辺も知らないですね。
梅林は中には入れなくなっていたので,敷地の外から・・・
そして,和久寺廃寺は,白鳳時代でしょうか? 京都北部でも最古の寺院跡のようですが,近くの鹿島神社の横の公演に案内板が立っていて,境内に心柱の礎石がある感じでした。
地域の小さな神社ですが。
いろんなところに歴史があるのですね。
現在の地名も「和久寺」です。
  
田畑が広がる辺りです。
 

そこから「もみじ寺」として有名な「長安寺」への案内看板があったので・・行ってみることに。
丹波大文字の姫髪山の麓です。
臨済宗です。【臨済宗南禅寺派、西国薬師霊場第26番札所、丹波古刹十五ヶ寺霊場13番札所で、「丹波のもみじ寺」として有名。また、重森完途作「薬師三尊四十九燈の庭」もあり、庭園内には水琴窟もある。】というところで,たくさんのお堂もあり,境内の散策も楽しめました。枝垂れ桜や紅葉の頃に訪れてみたいものです。
奈良時代からの歴史です。
ホトトギスの稲畑汀子先生や廣太郎先生の句碑がありました。
このお寺も有名なんですが,訪れるのは数年前に次いで二回目くらいです。
先にお庭っていうか,山門の外の辺りを「ちょっと寄り道/ブラ@タケミ」
全国のお茶の木
この枝垂桜の頃も綺麗でしょうね。そして,ヨウヨウザンの木
梅の木も一本,白梅が・・綺麗に咲いていました。
さて・・伽藍やお堂が並ぶ方へ・・
広い境内で,立派なお寺ですね。
きちんと拝観料も収めて,本堂の中には,今月だけ展示の涅槃図もありました。
上の方にも登ってみましょう。
開山堂などもあります。
初代城主杉原家次公の五輪塔です。
【明智光秀の在城期間はわずか3年間だけであった。福知山城はその後、丹波亀山城を居城とする豊臣秀勝が城主となり、次いで杉原家次が城主となったが病没後、小野木重勝が城主となった。豊臣秀吉の没後、関ヶ原の戦いでは小野木重勝は西軍に属し、東軍に属していた細川幽斎、細川忠興親子が立て篭もる田辺城を攻めた。この時細川忠興は関東に出陣中で、細川幽斎が留守居役で田辺城の戦いとなり必死に防戦した結果、どうにか和議にこぎつけた。関ヶ原の戦いの勝敗がはっきりすると、徳川家康の許しを得て、細川忠興は福知山城を攻め、小野木重勝は敗れ、亀山城下の寿仙院で切腹させた。】とありますが。
しかし,本当に立派なお寺さんです。
庭園も見事
薬師堂も見学できます。天井には龍が彫ってあります。
薬師堂は【文化十三年再建(1816) 唐様様式建造物。秘仏薬師如来二体の他、日光、月光、十二神将木像を安置。なお、歴代福知山城主の霊牌を安置する。】だそうです。
お庭の説明板にも詳細が記載されてます。
さて,参拝も終了
丹波大文字です。
 
【昭和26年(1951年)に姫髪山ふもとの奥野部と新庄の人々によって計画され翌年の昭和27年(1952年)に第一回の送り火が行われました。姫髪山は福知山市街地の何所からでもよく見えるところで絶好の場所です。福知山藩主であった、朽木綱方は城から見える姫髪山と姫髪山からの景色が忘れられず、自分の死後、歯を埋めるようにと言い残しました。長安寺から少し姫髪山に登った左側に「朽木綱方公の歯塚」の大きな碑が残っております。「丹波大文字」の送り火の後は広小路で行われる福知山踊りの輪の中に入っていくのが自然な流れです。】だそうです。

さて,お土産を買いに福知山駅に寄りましたが,売店が工事中でした。
市民交流プラザ福知山っていうモダンな建物ができていました。


せっかく福知山まで来たので,菩提寺の洞玄寺さんに永代供養塔に入っている先祖代々の墓参りです。
石原(いさ)というところです。
ご住職にもご挨拶が出来てよかったです。
ここは,元々,石原城があったそうですが・・・。
亡き父が牡丹園を寄贈して,長安寺のももじ寺,観音寺のあじさい寺とともに,福知山でも「ぼたん寺」として知っていただいているようです。
さて・・では,倉敷に戻りましょう。お土産は兵庫県に入った丹波市の道の駅で買うことにして・・・