2016.2/20
郷里の京都府福知山市の医師会から講演で招聘していただきました。
というのも,現在の医師会長が,井土先生〜昭和小学校の同級生です。
 
(これは,講演会の後,懇親会も終えて,その次の会でのスナップですが)
そして医師会が運営しています「福知山医師会看護高等専修学校」の「校歌」の新作PVも講演の最後で流し,大拍手を頂戴しました。

昭和54年当時,福知山市で開業していた父・大槻弘右(2008年夏に逝去)が作詞,長男である大槻剛巳が作曲して,校歌を作りました。それから35年以上,経った今でも校歌として歌い継がれていることを聞き及び,作曲者として新たに編曲し,プロモーション・ビデオを新たに作成しました。福知山医師会看護高等専修学は
【昭和元年,福知山市内記4丁目の旧医師会館内に福知山産婆看護婦学校を設立。その後,福知山助産婦看護学校,福知山厚生学院,福知山准看護婦学校を経て,昭和54年,福知山医師会看護高等専修学校となり現在に至って】 います。
会場はホテルロイヤルヒル福知山でした。きれいな雛壇が飾ってあります。
あいにくの雨で・・・ステキな中庭も雨模様の中・・・梅も遠くって近付けませんでしたが。
2008年夏に逝去した父も会長にはなりませんでしたが,医師会の仕事もしていましたので,今は倉敷に転居している母も喜んでくれました。
無事に終了して,良かったですね。教え子である土佐先生や,研究にご協力いただいた松山先生,今回のためにいろいろとご準備いただいた古木先生にも感謝です。

雪を心配していましたが予報で大丈夫そうだったので・・今回は,車で移動! 少し早めに入れたので,雨の福知山城です。
福知山城公演として整備されています。
福知山市美術館も,お城の様な作りです。
さて,登城しましょうか!
【現在のような縄張りは明智光秀がおこなった。畿内を押さえた織田信長は、豊臣秀吉と明智光秀に中国攻めを命じた。豊臣秀吉は山陽道から進軍したのに対して、明智光秀は山陰道側より入った。丹波国を平定した明智光秀が築城し、女婿の明智秀満を城主とした。】です。
福知山音頭でも「明智光秀,丹波を治め,治め丹波の福知山」って歌詞があります。
今回の校歌の福知山の看護学校の建物も雨に煙っていますが,よく見えていました。母校の南陵中学校も
【現在は、福知山城公園として整備され、天守は三重三階の大天守と二重二階の小天守が1986年(昭和61年)に復元された。福知山市郷土資料館の施設となっている。公園入口には隅櫓風城郭建築様式の福知山市佐藤太清記念美術館がある。】です。
瀟洒なよい天守閣で復元されていますね。
【豊磐井:本丸、天守の東側に「豊磐井」(とよいわのい)と呼ばれている大型の井戸が残っている。この井戸は城主であった朽木稙昌の父朽木稙綱の神号「豊磐稙綱命」にちなんだものである。井戸の深さは50mあり、海面下7mに達する。高所に関わらず水深37mもあり、現在も満々と水をたたえている。伝承ではこの井戸に抜け穴があり、二ノ丸の北側の対面所裏にあった横穴に通じていると言い伝えがある。第二次世界大戦前まで二ノ丸の北側に深い洞穴があったようだが、奥が行き詰っており氷室であったという指摘もある。】です。
光秀くんとひろこさんに招かれて入城・・・一番上の天守から・・雨に煙る市街地を眺めてみます。
といっても,実家もなくなっているので・・・由良川や・・・TV塔の近くが実家のあった辺りですが。
アーチの橋は,音無瀬橋
寄贈者の中には,父の名も
再び,降りてきました。
その後,数名の城主を経て【寛文9年(1669年)6月、土浦城の朽木稙昌が入部、幕末の1869年(明治2年)に至る約200年の長きに亘り朽木氏が13代世襲し当地域を統治した。】です。
でも,あまり朽木氏のことは言われずに,最初にこの辺りを平定した明智の殿様が・・讃えられていますね。
ぐるりと回れるようになっています。
再び,本丸広場の方へ・・
【市街地を一望する福知山盆地の中央に突き出た丘陵の先端地にあり、その地形の姿から臥龍城の別名を持つ。東から西に流れる由良川が天然の堀となっており、北側には土師川と合流する標高40mの台地に築かれ展望のよくきく地である。東、北、西は断崖で要害の地でもあった。国道9号走行中やJR福知山線の列車内からうかがえ、夜間はライトアップもされシンボリックである。また多数の桜が城周辺に植林されており、春には満開となる。】です。
【『平面古図』によると、天守は三重四階建ての大天守で、北側に二重二階階建の小天守、南側には現存していないが櫓門を介して二重二階建の菱櫓と連結した建物があった。大天守には、トコと棚をしつらえた八畳の上段ノ間、水流し、厠、小天守にもトコと棚をしつらえ住居施設を備えている。大天守と小天守の連結部には縁側をとって座敷風な造りがなされている。『復元体系 日本の城』によると「建築構成は、安土城天守を小規模にしたような形で、共通する点が多い」としており、安土城の天守との共通性を指摘している。復興天守の建設工事に伴い、発掘調査を実施したところ、当初は単独的な形であったがのちに改変付加され規模を順次拡張していたことが明確になった。復元天守は、大天守(3層4階)、続櫓、小天守が連結された形で、近世初期の望楼型である。外観は忠実に再現されているが、構造は鉄筋コンクリート造である。】だそうです。
【石垣:1873年(明治6年)の廃城令で建物や堀、石垣もかなり失われてしまい、遺構としては天守台と本丸の石垣が残されるのみとなった。石垣は、「野面積み」「乱石積み」「穴太積み」と呼ばれる自然石をそのまま利用されている方法で積まれている。石材の加工と用い方は「野面積み」、角部の積み方は「算木積み」、勾配としては、基底部は傾斜が緩やかで段々傾斜を増していき、上部はほぼ垂直になる「扇の勾配」と呼ばれている。また宝篋印塔、五輪塔などの石造物が大量に使用されており、「転用石」とも呼ばれている。一辺が62cmと大型の石材もあり、相当の寺院や墓所を破壊して石材を調達したことがうかがわれる。点数は現在発掘調査により増加しているが、おおよそ500点で、五輪塔が約250点、宝篋印塔基礎が約35点となっている。種類としては、宝篋印塔、五輪塔の他に、一石五輪塔、石仏、笠塔婆、石臼等があり、これらは現在も石垣の部材として使用されている。福智山城以前の横山城時代の山城やその関係寺院、三岳山周辺の寺院を破却したとの伝承がある。】ということで,転用石もおおく並んでいます。
さて・・・ほぼぐるりと一周しました。
ぼちぼち,移動しましょうか。

実家の医院の跡は・・まだ,更地のままです。
向かいは郵便局・・それはそのままですが,交差点挟んだ対角線の消防署はいてんして,跡にはローソンが入っていました。
 


今夜は講演会場であったロイヤルヒル福知山で宿泊させていただきます。