2016.2/06
17-20時予定で品川で会議〜ちょっと早めに上京して・・・JRで大森駅へ
これしか写真を撮れなかったのですが,ここは広重の描いた八景坂』……【今のJR大森駅西口前の坂である】です。ただ,今回は・・貝塚目的で・・・(*´∀`*)
そこから北進すると,NTTデータのビルの前に・・・いくつかの碑(とそのレプリカ)
さらに向かうと・・・大森貝塚遺跡庭園がありました!
明治10年にアメリカ人モース博士が発掘とのこと。
貝塚の地層も展示されていました。
蒸気は・・・雰囲気作りっていうより,何か偶々かな?
東海道線のすぐそばです。〜日本で最初の発掘だそうですが,シーボルトの息子さんとの発掘先陣争いもあったとか・・・
向かいには,大森貝塚児童公園もあって・・梅が。
もう少し品川より(大井町駅より)に進むと鹿嶋神社がありました。
大井村の村社、総鎮守だそうです。
広い境内。神楽殿などもあり,静謐な雰囲気のいいお社でした。
【同社社伝によると、安和2年(969年)9月19日に武蔵国荏原郡大井村字関ヶ原(現在の東大井6丁目)の常行三昧寺住職であった尊栄法印が常陸国鹿島神宮から分霊を勧請したことに始まり、同日、別当として、来迎院を建立、慈覚大師(794年
- 864年)がつくった薬師如来像を安置したという。常行三昧寺は江戸時代、1653年(承応2年)に大井から現在の南品川に移転した。1868年(明治元年)、神仏分離令を受け、来迎院と同一敷地内で分離、同社は大井村の村社、総鎮守と位置づけられた。来迎院は通称「お茶屋寺」と呼ばれる。1875年(明治8年)5月15日、同敷地内に簡易普通小学校が開校、同校は移転後、品川区立大井第一小学校と改称した。】とのこと
そして,【古来より祭礼として相撲が奉納されており、渋谷氷川神社、世田谷八幡宮と共に江戸郊外の三大相撲として知られていた。現在の社殿は1931年(昭和6年)に竣工した。旧社殿は1862年(文久2年)の造営で精巧を極めた鎌倉彫の彫刻が施されており、これを後世に伝えるため境内末社として移設して現存してある。1988年(昭和63年)、しながわ百景(鹿嶋神社)に認定される。】だそうです。
自然も・・・鳥がいました(何って名前? キミは?)
タブノキ・アカガシなどの巨木も・・
境内社もありました・・・
この辺りは,「池上通り」とのこと・・・初めて「ちょっと寄り道/ブラ@タケミ」します。
まんまるのにゃんこも・・・社務所のニャンコでしょうか?
まずは,お参り終了
そこから,どうしようかって思っていたら・・まずは,元来,鹿嶋神社(大井)の別当であった來迎院さん。道路を挟んで,石造念仏講供養塔もありました。1600年代の供養塔で,江戸初期,大井村で,念仏講が存在していた資料とある,とのことです。
この供養塔などのお堂が,なかなか,雰囲気があってよかったですね。
道路が複雑に絡み合って,その隙間の三角の土地に。この三つのお堂が並んでいました。
そして,水神社!(JRをくぐって・・・東側)
【水神社(すいじんしゃ)は、東京都品川区南大井に鎮座する神社である。水葉乃女命を祀る。】です。
【武蔵野台地の末端に位置し湧水が豊富だった当地で、1685年(貞享2年)、村民たちの手によって水神(九頭龍権現)を祀ったのが始まりであるという。願主は桜井伊兵衛と大野忠左衛門であった。明治時代までは日照りになると村人がここへ集まって雨乞いをしていたと伝えられている。湧水は「柳の清水」と呼ばれ、歯痛を止めるのにも利益があったという。明治時代になると祭神は水葉乃女命に変わった。同社にちなみ、同地域は「大井水神町」という町名であった(1963年町名変更)。1975年(昭和50年)前後までは、水が湧き出ていたという。現在ではポンプで水をくみ上げている。】だそうです・・・で,池は・・金網の中!
【1978年(昭和53年)、品川区指定史跡、1988年(昭和63年)、しながわ百景(大井の水神社)に認定される。】だそうです。
まだちっちゃな鯉(金魚?)がとっても沢山!! ちょっとびっくり!
この近くには,「品川歴史館」もありました。また,今度,訪れてみましょう!
そこから・・・大井町駅まで「ちょっと寄り道/ブラ@タケミ」なのですが・・そこには,立会道路・・・
暗渠です,立会川は【立会川(たちあいがわ)は、東京都目黒区および品川区を流れ東京湾に注ぐ二級河川。全長7.4km。昭和20年代までは魚やザリガニが棲むきれいな小川であり、子供たちの絶好の遊び場であったが、現在では大部分が暗渠となり、道路(立会道路)や、緑の豊富な遊歩道、公園などになっている。】ってことです。かつ,【東京都目黒区にある碑文谷池と清水池に源を発し、南東方向へ流れる。品川区の西小山駅、荏原町駅、西大井駅、大井町駅、立会川駅付近を通り東京湾の勝島運河に注ぐ。昭和後期には水量の減少と生活廃水等により汚れた川となり、1996年度には生物化学的酸素要求量(BOD)が都内の中小河川で最悪となっていた[2]。しかし2002年7月からJR東日本が、馬喰町駅
- 東京駅間の総武線トンネル内に湧き出る地下水の下水費用対策と、立会川の水量増加と水質改善を兼ねて、敷設した12kmの配水管により立会川への送水を開始し、このことにより水質が大幅に改善した。2003年には海で孵化したボラの稚魚が大群で現れて話題となった。】というのも環境衛生的には,興味深い。
途中に「関ヶ原公園」ってのがありましたが,これは・・・元々の地名で,合戦とは関係ないみたい・・鹿児島藩島津家の抱屋敷跡だそうです。
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名称の由来は【複数の説があるが、定説となるものは無い。●その昔、川を挟んで小競り合いがあったことから「太刀会川」とした。●鈴ヶ森刑場へ送られる罪人を、その親族や関係者が最後に見送る(立ち会う)場所であることから「立会川」となった。●中延の滝間(たきあい)という地を流れていたので滝間川(たきあいがわ)と呼ばれ、それが現在の立会川に変わった。】だそうです。
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