2015.11/06
共同研究の関係で,東京御茶ノ水 Sola City Hallでの第19回トレハロースシンポジウムに参加しました。
主催の「林原」さんは,云わずと知れた岡山発の会社さんですし。事務局も岡山の林原なんですね。
〜 以前,ここの貸会議室を市民講座で使ったこともあったけど,2013年開業なので,その時はその前ってことですね。都会的ないい感じです。
そして,もうX'mas Tree
    
要旨集と一緒に・・鴨方産の「うどん」トレハロース入りです。
 

さて・・・1時間くらいしか余裕なく上京だったので・・神田川を挟んだ向かいの・・湯島聖堂で「ちょっと寄り道/ブラ@タケミ」
もう,何度か訪れてはいますが・・・。
【湯島聖堂は、元禄時代、5代将軍徳川綱吉によって建てられた本来は孔子廟である。東京都文京区湯島一丁目、JR中央線の御茶ノ水駅聖橋口からでて、聖橋を渡り右手の森の中にあり、「日本の学校教育発祥の地」の掲示がある。 湯島天満宮とともに、年間を通して合格祈願のために、参拝に来る受験生が訪れる】です
飾りっけのないところが,また厳粛な感じで・・
緑は多いですね。
ブラブラと・・・
神社でもないので・・・賽銭箱めいたものもありますが,それは維持管理費に使用しますって注釈付きでした。
処々・・・花なども・・冬近し
【1690年(元禄3年)、林羅山が上野忍が岡(現在の上野恩賜公園)の私邸内に建てた忍岡聖堂「先聖殿」に代わる孔子廟を造営し、将軍綱吉がこれを「大成殿」と改称して自ら額の字を執筆した。またそれに付属する建物を含めて「聖堂」と呼ぶように改めた。翌1691年(元禄4年)2月7日に神位の奉遷が行われて完成した。林家の学問所も当地に移転している。】
少し降りていく感じで・・東側へ
もう少し行くと・・・孔子様も・・
すくっと立っていらっしゃいます。
   
うん,少し猫背かな?
    
大きな楷の木
柑橘類?と鳩と・・
【大成院の建物は、当初朱塗りにして青緑に彩色されていたと言われているが、その後度々の火災によって焼失した上、幕府の実学重視への転換の影響を受けて再建も思うように出来ないままに荒廃していった。その後寛政異学の禁により聖堂の役目も見直され、1797年(寛政9年)林家の私塾が、林家の手を離れて幕府直轄の昌平坂学問所となる。これは「昌平黌(しょうへいこう)」とも呼ばれる。「昌平」とは、孔子が生まれた村の名前で、そこからとって「孔子の諸説、儒学を教える学校」の名前とし、それがこの地の地名にもなった。これ以降、聖堂とは、湯島聖堂の中でも大成殿のみを指すようになる。また、2年後の1799年(寛政11年)には長年荒廃していた湯島聖堂の大改築が完成し、敷地面積は1万2千坪から1万6千坪余りとなり、大成殿の建物も水戸の孔子廟にならい創建時の2.5倍規模の黒塗りの建物に改められた。この大成殿は明治以降も残っていた。】
今日は木漏れ日が眩しい
いい空間です。
奥にある神農廟には入れません。
また,出版物の販売もされています。事務室前で・・。
さて,また戻って行きましょう!
黒い佇まいがいいですね
見学,終了!
  

ここは,医科歯科大・順天堂大が隣り合っています!
淡路町への下り坂は・・・淡路坂・・そこにご神木があります。
  
【太田姫稲荷神社は、太田道灌の娘が重い疱瘡に罹った際、小野篁が創建した京都一口稲荷神社を勧請して、江戸城本丸内に長禄元年(1457)創建したと伝えられ、一口稲荷神社とも呼ばれていました。太田道灌は後、当社を江戸城鬼門へ移しましたが、徳川家康入府後、神田駿河台裏側の大坂へ遷座、坂は一口坂と呼ばれ、神田駿河台の鎮守となったといいます。昭和6年、総武線延伸工事の際に、当地へ遷座しました。】
だそうで,今度,上京したら参拝させていただきます。
そして・・日本最大のビザンチン式の建造物!
【正教会の大聖堂。「ニコライ堂」は通称であり、日本に正教会の教えをもたらしたロシア人修道司祭聖ニコライにちなむ。 正式名称は「東京復活大聖堂」であり、イイスス・ハリストスの復活を記憶する大聖堂である。 日本正教会の首座主教座大聖堂】ということです。
 
ここは紅梅坂
  

シンポジウムが終了したら・・・キラキラでした!
  
で・・・今日は,以前,JTBに務められていた知り合いのKAさんと,メシ会・飲み会・・・
淡路町の方へ・・
ピザなど,とっても,とっても美味しゅうございました。
帰路の新幹線では,結構,ずっと寝てました!(最終ののぞみ)