2015.7/31
12時すぎ集合で日本衛生学会理事会でしたが,早めに京都に到着して・・京都駅から山陰本線(嵯峨野線)で。。円町
 
暑くって,汗だらだらでしたが,金閣寺まで徒歩!
中国語を主体に,いろんな言語が飛び交う中,散策(っていうか,人並みに従うだけですが)・・してきました。
それはもう,一番の名所ですものね!
金色堂です!!!
人並みから垣間見る的ですが。。。
でも,やっぱり美しい!!!!!!!!!!!!
さぁ,順路に沿って,動きましょう!
舎利殿金閣寺ですね!
池の向こうには入れません
しかし,結構,近くで観れます
そうか一階部分は,金色ではないのですね!
小学校の修学旅行以来かなぁ・・・・
でも,本当に美しいのです。
さて,ここからは,境内散策です。
人の流れに従うしかありません。
でも,舎利殿以外も・・も優美な境内です。
【鹿苑寺(ろくおんじ)は、京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺。建物の内外に金箔を貼った3層の楼閣建築である舎利殿は金閣(きんかく)、舎利殿を含めた寺院全体は金閣寺(きんかくじ)として知られる。相国寺の山外塔頭寺院である。寺名は開基(創設者)である室町幕府3代将軍足利義満の法号・鹿苑院殿にちなむ。山号は北山(ほくざん)。寺紋は五七桐。義満の北山山荘をその死後に寺としたものである。舎利殿は室町時代前期の北山文化を代表する建築であったが、昭和25年(1950年)に放火により焼失し、昭和30年(1955年)に再建された。平成6年(1994年)にユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」の構成資産に登録されている。】ですよ!
そうか,三島由紀夫の金閣寺は,この放火を舞台にしていますものね!
そういえば,若い頃の映画でも観ましたね!
山がそのまま境内です。
足利義満ですよね!
少し登ったところです。
木々の向こうに金色が見えます。
【応永4年(1397年)、室町幕府3代将軍足利義満が河内の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって一新した。この義満の北山山荘は、当時「北山殿」または「北山第」と呼ばれた。邸宅とはいえ、その規模は御所に匹敵し、政治中枢のすべてが集約された。応永元年(1394年)に義満は将軍職を子の義持に譲っていたが、実権は手放さず、北山第にあって政務を執っていた。応永15年(1408年)に義満が死亡すると、義持は北山第に住んでいた異母弟義嗣を追放して自らここに入ったが、翌16年(1409年)には北山第の一部を破却して三条坊門第に移った。】だそうです。
やっぱりさすがの世界遺産!
茶室です。
しかし,日本人の方の外国語案内の方も含めて・・日本語を探す方が大変なほど。
トカゲくん
  
この茶室もいい感じの古さ
さて,これでそろそろ順路は出口ですが・・・・。
【その後、義満の妻である北山院日野康子の御所となっていたが、応永26年(1419年)11月に北山院が死亡すると、舎利殿以外の寝殿等は解体され、南禅寺や建仁寺に寄贈された[4]。また、応永23年(1416年)1月に義満が相国寺から移築した七重大塔が落雷で焼失すると、義持は七重大塔を相国寺に再建するように命じている[5]。応永27年(1420年)に北山第は義満の遺言により禅寺とされ、義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けられた。夢窓疎石を勧請開山(名目上の開山)としている。応仁の乱では、西軍の陣となり建築物の多くが焼失したが、江戸時代に主要な建物が再建され、舎利殿も慶安2年(1649年)に大修理された。明治維新後の廃仏毀釈により、寺領の多くが返上されて経済的基盤を失ったが、当時の十二世住職貫宗承一により明治27年(1894年)から庭園及び金閣を一般に公開すると共に拝観料を徴収して寺収入を確保した。】おお,応仁の乱でも焼失したのですね!
こちらには不動院もあります。
休憩や,参拝記念品の売り場など・・・・
御朱印は,舎利殿と石不動尊と両方を頂戴しました。

さぁ・・・バスで京大まで,なので・・そろそろ参拝終了!
ああ,でも,いい見学ができました。