2014.9/10-12 徳島で9/11-12で第21回日本免疫毒性学会学術年会,で,大槻は9/10の16時からの理事会にも事務局として,準備万端で参加しないと・・・ で,車で移動していきたのですが,途中,香川大学医学部に立ち寄っても,実は正午前に徳島シティに到着! 眉山は。。以前,保護者会で訪れたときに登ったので・・今回は,徳島城址・・・徳島中央公園です。 日差しも暖かく・・いい感じです。 淡水のカニなのかなぁ??? 本丸跡の広場に到着です・・汗かいた・・・!! 【渭山城・寺島城:この地は鎌倉時代より伊予国地頭の河野氏が支配していた。室町時代の1385年(至徳2年)に細川頼之が四国地方にあった南朝方の勢力を討ち、現在の城地の城山に小城を築いた。頼之は助任川の風光を中国の渭水に例え、この地を渭津、山を渭山と名付けたとされ、または富田庄(のちの徳島)の地頭として来任した河野通純が1272年(文永9年)に築いたともされる。渭山の名についても、西から見た姿がイノシシに似るため猪山と呼んだという説もある。】だそうです。 【徳島城:戦国時代になると、阿波の地は群雄が割拠し、しばしば城主が入れ替わった。1582年(天正10年)には土佐国の長宗我部元親が侵攻し阿波が平定された。1585年(天正13年)、豊臣秀吉の四国征伐に勲功のあった蜂須賀家政(蜂須賀正勝の子)が阿波1国18万6000石を賜った。入封当初は徳島市西部にあった一宮城に入城したが、入封早々に現在の地に大規模な平山城を築造し、翌年完成した。以後、江戸時代を通して徳島藩蜂須賀氏25万石の居城となり、明治維新を迎える。】なんですね。 これは大木!! 「ブラ@タケミ」と回っていきましょう! いろんな記念碑などなど・・・ そして,このあたりにも櫓跡 城址の山もよく見えます。 【旧徳島城表御殿庭園は、昭和16年12月13日に国指定の名勝に指定されました。この庭園は、旧徳島藩主蜂須賀公の居間や表書院の庭として造られたものです。武将で茶人の上田宗箇作庭の枯山水庭(書院の庭)と築山泉水庭(居間の庭)の二庭からなる観賞式と池泉廻遊式を兼ね具えた桃山様式を伝える名庭です。】だそうですね。 また,中央公園です・・・ 舌石も見所! 鶯の門です。 【徳島城の内堀にかかるこの橋は、橋長12m、幅員3.5m、上部は国産ヒノキを使用した木橋で、擬宝珠高欄を取り入れ、下部は上部にあわせた擬木橋として江戸時代の風情をかもしだしており、堀の水面に写る姿に昔日の面影をしのばせています。】です。 ホテルに着いて,車を置いて理事会にむかいました。 9/11の懇親会終了後・・こちらも「ちょっと寄り道/ブラ@タケミ」ですが・・新町川公園で・・橋のイルミネーションがステキ さすが,阿波踊りの街 9/12・・・学会終了後・・17時前に終了したので,せっかく車で来たので・・・・「ちょっと寄り道/ブラ@タケミ」 勝浦浜橋を渡りまして・・ナビに従って・・ シニアテニス大会らしく,たくさんの車でした。 今度は,国土地理院認定「日本で一番低い山(自然の)」です。 【弁天山(べんてんやま)は、徳島県徳島市方上町にある山。】 さて。最後に・・・暮れ掛かって来ましたが・・・阿波史跡公園!!に「ちょっと寄り道/ブラ@タケミ」 【徳島市国府町の西端にある気延山(きのべやま)の麓に、3300〜3800年前の西日本最大級の縄文後期の集落跡がこの近辺で発見されました。面積6万5000uもの集落が、矢野には存在していたのです。13万点を超える遺物が発見され、日本最古の水銀朱を精製する「たたき石」などが出土し、国府町が水銀祭祀の先進地として機能していたことがわかっています。更には、日本最古の祭祀用土面が出土し北陸東北にまで影響を及ぼしていました。矢野遺跡は西日本の一大祭祀センターであったのです。阿波史跡公園は1992年3月、市制100周年事業の一つとしてオープンしました。公園内には本物そっくりに再現された竪穴式住居や、県内最大の古墳群があり、古代にタイムスリップしたような気分になれます。また、周辺には気延山古墳群が存在し、四世紀初めから七世紀初めにかけての古墳が100基以上点在しています。】だそうです。 山全体も公園のような・・っていうか,古墳なども多いのですね・・・時間があれば,いろいろ散策したいところですが・・・・・ さあ,倉敷に戻りましょう!帰路は休憩なしで・・・・。 |