2013.8.04. 
      日本衛生学会の編集委員長の業務として,日本位学会の「医学雑誌編集者会議」として,国際会議に参加してきました。 
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      日本医師会館です。 
      
      
      立派なホールで開催されました。 
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      ランチ付・・で,ポスターには,CiNii,J-STAGE,医学中央雑誌そしてmedical online がありました。 
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      いつもこの会議は,此処!そして,近くに六義園・・・今日もランチタイムにちょっと散策! 
          
      今日は夏盛り・・・緑に溢れています。 
      
      
      生憎の曇り空だったのですが,そこまで暑くもなく・・丁度いい! 
      
      
      【六義園は、徳川五代将軍・徳川綱吉の側用人・柳沢吉保が、自らの下屋敷として造営した大名庭園である。元禄8年 (1695) に加賀藩の旧下屋敷跡地を綱吉から拝領した柳沢は、約2万7千坪の平坦な土地に土を盛って丘を築き、千川上水を引いて池を掘り、7年の歳月をかけて起伏のある景観をもつ回遊式築山泉水庭園を現出させた。】です。 
      
      
      花々は少ないですが,それでも・・・ 
      
      
      それなりに楽しめるものです。 
      
      
      【「六義園」の名称は、紀貫之が『古今和歌集』の序文に書いた「六義」(むくさ)という和歌の六つの基調を表す語に由来する。六義園は自らも和歌に造詣が深かった柳沢が、この「六義」を『古今和歌集』にある和歌が詠うままに庭園として再現しようとしたもので、その設計は柳沢本人によるものと伝えられている。】だそうです。 
      
      
      何回も訪れているってこともありますが,いい庭園ですね。 
      
      
      今日は時間の關係で・・・山のところは行かずに,池周りだけ・・ 
      
      
      茶店もありますね! 
      
      
      ちょっと場違いな若者たちも・・居ました(*゚▽゚*) 
      
      
      季節ごとに,彩りも違うのでしょうね。 
      
      
      【元禄15年 (1702) に庭園と下屋敷が一通り完成すると、以後将軍綱吉のお成りが頻繁に行われるようになる。その回数は記録されているものだけでも実に58回もあり、吉保の寵臣ぶりもさることながら、この庭園自体が当時にあっても天下一品のものと評価されていたことが窺える。柳沢家は次の吉里の代に甲府から大和郡山に転封となるが、六義園は柳沢家の下屋敷として幕末まで使用された。時代が下るにつれ徐々に荒れはしたものの、江戸を襲った度々の火災で類焼することもなく明治を迎えた。】とのことです。 
      
      
      苔むした橋がなんとも言えない風情です。 
      
      
      ちょっと大粒の雨が走りました(濡れる程ではなかったのですが) 
      
      
      東京には,こういった大名庭園が沢山あって・・いい感じです。 
      
      
      さて・・会議に戻りましょう。 
          
      
       
      予定より早く終了・・・もう羽田に移動して・・読書・・・そしたら,機種変更で,B787へ・・大丈夫かな? 
      
      
      ポケモンジェットも居ました。 
            
      さて,羽田はいい感じの夕焼けだったのですが・・・だんだん。。。大きな雷雲・・・ 
      
      
      B787は,いろんな掲示がパネルでできまして・・・ほら,今どこを飛んでいるのか・・あらあら・・・静岡県上空から・・雷雲を迂回して・・なんと・・紀伊半島南端近くまで・・ 
      
      
      なんとなく・・どこまで降りていくのかなぁ・・って 
      
      
      本当に,雷雲の南端を迂回して・・・淡路島南端をかすめて,小豆島で機首の方向転換で,高松から上がって行きました。 
              
      そして,漸く・・岡山・・ただ,揺れもほとんどなく,ちょっと時間がかかったくらいでしたけれど〜〜〜 
        
      今日のお土産 
                
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