2013.1.11.
大学コンソーシアム岡山の企画会議でした。なんだか,ちょっと久し振りの岡山理科大学でした。
  
木村運営委員長先生・・・今年度でご勇退とのことですが,次年度も顧問としてご参加ご助言はいただけるそうです。事務局の矢延さん・岡戸さんも,資料準備だけでも大変ですね!
冬の青空が広がる半田山です。
スカイテラスからは・・・岡山市街地が一望!
会議は・・・18時過ぎまでかかって・・終了時には,今度は,岡山市の夜景が一望でした。
   

本日の「ちょっと寄り道/ブラ@タケミ」!
理大を少し通り越して・・・岡山市中区賞田の「賞田廃寺跡(しょうだはいじあと)」です。
    
非常に広大な土地です。長く岡山県(っていうか,倉敷市なので)に住んでいるのですが,なかなか岡山士の東部には来ないので・・・知りませんでしあt。
【賞田廃寺跡は岡山市街地の北東、龍ノ口山南麓に位置する。遺跡の周辺では瓦片が出土するなど古くからここに寺院跡があることが知られていたが、寺院の名称は記録がなく不明である。古代吉備の豪族であった上道氏の氏寺の一つと推測される。この遺跡の周囲には、唐人塚古墳などの古墳が数基見られ備前国府跡や幡多廃寺跡もあり、この地域一帯は古墳時代から奈良時代にかけての古代吉備の中心地の一つであったと推定される。】だそうです。
西塔,本堂,金堂,東塔と・・・並んでいたようですね!
【当初は7世紀前半に小堂が建造された。7世紀中葉の飛鳥時代には本格的な寺院が営まれ、奈良時代に全盛期を迎えた。その後衰微し、13世紀、鎌倉時代までは存続していた。以上のことが昭和45年(1970年)の発掘調査で確認された。また、平成13年(2001年)からの発掘調査で、室町時代にも何らかの仏教施設が存在したことが確認されている。】だそうです。
おそらく季節ごとに様子も違うのでしょうけれど,この冬枯れた雰囲気も,空気が張り詰めていて・・・古代ロマンです。
背景には,龍ノ口山がそびえています。
こんな遺跡があったとは・・・いろいろと探して「ちょっと寄り道/ブラ@タケミ」ってのは,いいですね!
また,夏とかにもきてみたいものです。
【昭和45年(1970年)の発掘調査では、寺院の規模が概ね1町(約110平方メートル)四方であることが分かり、金堂・塔・西門・回廊・築地跡の一部が検出された。また、飛鳥時代と奈良時代の二度に渡って大整備がなされていたことが判明した。発掘によって奈良三彩などの陶磁器類、各時代の瓦、基壇の石材などの遺物が発掘された。塔の基壇には凝灰岩壇正積基壇が用いられており、これは畿内中心部の有力寺院に見られる基壇で地方寺院では極めて珍しいものである。出土した奈良三彩や塔の基壇構造から上道氏と中央政権との繋がりの強さを見ることができる。寺院の北東には瓦窯跡も発見され、この寺院の瓦はここで焼かれた。】だそうですね,こういった講演会とかないかしら??
さて・・・もう少し時間もあるので,歩を進めてみましょう!
それと・・・この辺りは,住宅街から,少し離れて田園地帯になっていますが・・アユモドキの生息用水路だそうです。
もう2004年のことですが,MEの実習生さんと・・・KIRINビアパークでのアユモドキの展示に行ったこともあります。
そして,案内板がないと行き着けない様な処に「唐人塚古墳」です。
    
どうも墳丘は消失しているそうですが・・普通に道を歩いていたら,多分,たどり着けません!
【唐人塚古墳(かろうとづかこふん) - 岡山市賞田にある。標高257.1mの竜丿口山南側に位置し、飛鳥時代創建の賞田廃寺に隣接する。墳形は、後の開墾や、墳丘上が道路として利用されていたため現況では全く不明である。石室全長は8.9m、玄室部の長さ5.1m、同幅2.2 もしくは2.9m、羨道の長さ3.7m、同幅2.9mである。両袖式である。総社市のこうもり塚古墳、真備町の箭田大塚古墳、岡山市の牟佐大塚古墳のいわゆる吉備三大巨石墳と同様に、巨石を用いた数少ない古墳である。そのうち本墳の石材は最も整美であり、県下の巨石墳のなかでは最後につくられたと考えられている。玄室部には、長さ225cm、幅120cmの石棺の身があり、石材は兵庫県産の竜山石である。県下における同種の石材の石棺のうちでは最も大きい。本墳の位置する旭川東岸部は、古代の有力豪族である上道氏の拠点である。本墳は上道氏の古墳と考えられ、賞田廃寺の建立へと続くのであろう。周辺は、備前車塚古墳、備前国府跡、浄土寺などの遺跡がまとまっており、JR高島駅を起点として、一日ハイキングコースとして歩くこともおすすめである。】です,です。「かろうとづか」と読むのですね!
そして,どうも現役っぽい水車も・・・春を待つ田園の様子が心に沁みます。
さて・・そろそろ・・会議のために理大に向かいましょうか!