2012.3.08.
相変わらず曇天の今日ですが,今日はオルガノンの会議で,岡山大学津島キャンパスです。

TV会議システムでもいくつかの大学が参加されています。
 
今日の委員会は,岡大・遠山先生が所掌されている学士課程教育連携委員会です。
木村先生(理大)が,オルガノンの大学コンソーシアムへの継承について述べられています。
   
津島キャンパスの一般教育棟でした。
このところ,立て続けに行われたオルガノン関係の委員会も終了で,来週は代表者委員会ですが,これは,都合で出れません。すみません。

昨日に引き続き「ちょっと寄り道/ブラ@タケミ」は吉備津彦神社へ!
昨日は,本殿から東側をブラリとしましたが,今日は西側にします。
こちらには,本殿の解説板もありました。
苔むした藁葺き屋根などは,歴史そのものですね!
【天慶2年(939年)における天慶の乱において、藤原純友が反乱を起こした際に安仁神社は純友に味方し、一方で吉備津彦神社の本宮にあたる吉備津神社は官軍(朝廷)に味方したためという説がある。結果、純友は敗北。安仁神社は一宮としての地位を失い、吉備津彦神社にその地位を譲る事となったとされる。戦国時代には、日蓮宗を信奉する金川城主・松田元成による焼き討ちに遭い社殿を焼失した。松田氏滅亡後、宇喜多直家が崇敬し、高松城水攻めの際には羽柴秀吉も武運を祈願したと伝えられている。江戸時代になると姫路藩主で岡山城主の池田利隆が本社を造営した。利隆は光政の誕生を期に子安神社を造築した。その後、岡山藩主池田忠雄により本社・拝殿が造営された。池田綱政が社領300石を寄進し、本殿(岡山県指定重要文化財)を造営し、本殿・渡殿・釣殿・祭文殿・拝殿と連なり回廊が巡らされた社殿が完成した(元禄10年(1697年)に完成)。明治5年(1872年)県社に列せられた。昭和3年(1928年)国幣小社となった。昭和5年(1930年)12月、失火により本殿と随神門以外の社殿・回廊を焼失した。現在見られる社殿は昭和11年(1936年)に完成したものである。】ということで,昨日の説明に加えて,歴史です。
さて,本殿っを横に見ながら門を抜けて,子安神社〜天満宮へと向かいましょう!
まずは天満宮・・・学問の神様ですので,しっかりとお祈りします。
こちらには,白梅も,紅梅も・・・ただ,まだ咲き始めたばかりの様でした。
「紅梅を見てみちのくの旅を恋ふ」
稲畑汀子
ホトトギス
白梅も・・・まだ,ポツリポツリですが・・春は,近いです!
「梅寒し君の笑顔に救はれて」 稲畑廣太郎 ホトトギス
「紅梅の命の色の魁けし」
稲畑汀子
ホトトギス
「紅梅や天与の色として二輪」
稲畑廣太郎
ホトトギス
ただ,この時期のまだ咲きはじめの梅は,そこはかとない寂寥も併せ持つ様です・・・まだまだ肌寒い時期ですし。
さて,子安神社は,子授け・安産ですね。
こちらにも多くの絵馬があります,命を願う一途さと激しさと。
そして,並びには幾つかの摂社がありました。
矢喰神社とか鯉喰神社とかは,大学の近くにあります・・・温羅伝説〜そして桃太郎伝説です。
さて,石段を居りましょう!
   
そうすると・・・岩戸です。龍だそうです。
ちょっと「何これ?」って印象ですが・・・。
 
さざれ石もあって・・・
駐車場の外れにはいくつかの歌碑があって・・・でも,その奥に・・・・誰??・
なんと,桃太郎です。確かに吉備津彦命は,桃太郎と称されますが・・・。
ちょっとお顔立ちが・・・「イモト」みたいで・・・イッテQ的な・・・(眉毛のせいかな?)
でも,何回か吉備津彦神社には来ているのに初めて見つけて,なんだか,衝撃でした。
それと,ここのお手洗いですが,「姫」「彦」「福」です。これはいいですね!

さて,帰りましょう