2012.1.21.
日本衛生学会の理事会でした。

現体制では和文誌編集委員長として,それと時期からは一応理事に選ばれましたので,新理事としても参加です。
だいぶお知り合いも増えました。

のぞみで往復しました(往復の間は,和文誌編集委員会としての今月号の編集委員長最終校正をしていました)。
滋賀〜岐阜県境の伊吹山は雪模様です。
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さて,今日の「ちょっと寄り道/ブラ@タケミ」は・・・板橋区です。
都営三田線で,新高島平駅へ・・・そこから徒歩で散策(冬の雨の中でしたが・・・)です。
このあたりはニリンソウの自生地だそうです。
【サクラの花が散る頃、大門地区の雑木林が可憐な野草・ニリンソウで美しく色どられます。武蔵野台地の崖線に沿って奥行きは20m、東西約200mの白い花の乱舞は見る人を別世界にいざないます。赤塚城址下の竹やぶ脇の小道にも咲いており野草観察の穴場となっています。 】だそうです。
新大宮バイパスを越えて・・・赤塚溜池公園〜郷土資料館などのある辺りへ向かいます。
赤塚城本丸跡です。
    
台地の上に登ってみると・・・そういえば・・・昨日は東京は雪だったそうですね・・なごり雪です。
【公園の西端からほど近い、小高い丘の上に赤塚城跡があります。これは康正2年(1456年)に、太田道灌の力をかりてこの地を平定した千葉自胤氏の居城・本丸跡です。石神井公園内に位置する豊島氏の居城である石神井城は、この千葉自胤氏によって落とされました。どちらも現在は公園になっており、そうした歴史を探って公園巡りをするのも、ひとつの趣向です。】だそうですが,そういえば,昨年12月には石神井公園にもいきました。そういうつながりがあったのですね。
【康正2年(1456年)に市川城から移った千葉自胤によって築城されたと伝えられる。但し、伝承によればそれ以前に源頼朝が挙兵後に徳丸を通過した際に立ち寄ったとも言われており、正確なところは不詳である。赤塚千葉氏は後北条氏の有力な家臣として活躍したが、天正18年(1590年)に豊臣秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅亡すると、千葉氏も所領を没収され、赤塚城は廃城になった。】だそうで・・・室町後期でしょうか・・・・。
子どもたちが雪で遊んでいました。
    
しばらく歩くと,東京大仏のお背中が見えますが,その下には,雪だるまも・・・・。
そして,東京大仏:赤塚山乗蓮寺さんです。
【応永年間(1394年-1427年)に了賢無的が山中村(現在の板橋区仲町)にて人々に教えを伝えるために創建したと伝えられている。その後、江戸時代の初期のころまでに板橋区仲宿に移転した。当時は孤雲山慶学院乗蓮寺と称していた。後に慶学山乗蓮寺になった。】だそうです。結構な歴史です。
    
雪の残る冬の雨の中・・・ひっそりとした佇まいでした。
【当寺院は、郷主・板橋信濃守忠康の菩提寺になるなど人々から信仰を得ていた。天正19年(1591年)に徳川家康から十石の朱印地が寄進され、その後も歴代の将軍から朱印地が与えられ格式ある寺院となった。また八代将軍・徳川吉宗の鷹狩の際の休憩所・お膳所としても使われた。】ということで,格式高い仏閣ですね。
    
池には,金色堂がありました。
伽藍はどっしりとした感じです。
さて,東京大仏です。
非常に柔和な顔つきの大仏様です。
    
【坐像で、青銅製の鋳造大仏では、奈良・鎌倉に次ぐ日本で3番目の大きさを誇る。高さは基壇が地上2メートル、蓮台2.3メートル、座高8.2メートルの計12.5メートル。浅草の仏壇店翠雲堂が製造した。】だそうです。
線香をお供えしましょう。
    
さて,周囲には,いくつかの像や供養塔・・・天保の飢饉の供養塔などがあります。
小さなお地蔵さんが,それぞれの像の周囲に置かれています。
それぞれに・・・縁故のある像なのですね。
【その後も長く仲宿の地にあったが首都高速道路の建設と国道17号の拡幅により、昭和48年(1973年)に現在の赤塚の地(赤塚城二の丸跡)に移転した。山号も赤塚山と称した。そして1977年(昭和52年)、かつて東京を襲った関東大震災や東京大空襲など、悲惨な震災や戦災が再び起きないよう願いを込め当寺院の代名詞にもなっている東京大仏が建立された。】とのことです。
大仏さんをぐるりと回って・・・一段,下の方へ向かましょうか・・・。
七福神の像や,福寿観音堂などがあり,鐘楼が見えてきます。
初詣などでは,賑わうそうです。
さて・・・境内もだいたいめぐりました。
  

不動の滝というのがありました。
台地からの湧水の様ですね。
    
東京が台地と,そ谷合で構成されていることがよくわかりますが・・・。

まだ,少し時間もあるので・・・赤塚植物園です。
雪が残っていますよね。
【この植物園は、武蔵野の面影を色濃く残す赤塚の丘陵地を活用し、自然や植物がより身近なものとして親しむことができるような施設として1981年(昭和56年)10月に開園しました。本園と万葉・薬用園からなり、本園は、狭いながらも樹木見本園として多くの樹種が植えられ、その下には野草も可憐な花を咲かせます。また万葉・薬用園には、万葉集に詠まれた植物や薬用植物が植えられています。】とのことです。
冬は・・・やはり,植物園は少し寂しい感じですが・・・。
万葉・薬用園には,パネルで・・・万葉集の詩歌が・・・紹介されています。それぞれのお花は,冬はひっそりと姿を隠していますが・・・。
とっても沢山なので,きりがないって感じですね・・・。
万葉散歩って気分になれば,いい感じです。
寒椿もありました。
緑があふれるころは,また素敵でしょうね・・・バラ園とかも・・・。
さて,本園に戻りますが,針葉樹園や郷土の樹木などが,並んでいます。
柿や柑橘系もありました。
そして?梅の花が・・・咲き始めていました。
さて,結構,楽しめました。

  続いて・・・・松月院さん・・・少し離れた大堂です。
八幡神社と併設って感じでしたけれど・・
【近隣にある寺院で、松月院が管理している。現在では阿弥陀堂と梵鐘のみ残されているが、創建は大同年間(806-810年)と板橋区最古を誇る。戦国時代に焼失したが、かつては七堂伽藍があった大寺院であったという。梵鐘は暦応3年(1341年)の作で都内最古のもの。】だそうです。元々,別寺院で,今は松月院さんの管理ってことですね。
都内最古の梵鐘ですか・・・それはすごい!

萬吉山宝持寺松月院さんです。
少し雨脚が激しくなってきました。
【房総に勢力を持っていた武将・千葉自胤が康正2年(1456年)に現千葉県の市川から赤塚城に移り、その後1492年に当地にあった古寺・宝持寺を自身の菩提寺として定め、土地を寄進し、松月院と名を改めさせたのが始まりであるといわれている。江戸時代には、当寺院は徳川家康に認められ、40石の朱印地が与えられた。他歴代の将軍からも保護を受け発展した。】だそうです。
広い境内です,幼稚園や葬儀ホールもされてらっしゃるようでした。
本堂からは,読経の声が聞こえていました。
さて,そろそろ時間です。
  

最後は高島平駅まで急ぎ足で歩いて・・・・間に合いました。